私も何度か大崎さんの取材をしています。直接本人から話を聞いた以外にも、学校や野球部の関係者、そして、ご両親にまで取材をしました。その中でも耀子さんが亡くなったあと、ご両親から耀子さんが病気に至った経緯や、甲子園を目指したときの彼女の容態などについて細かく聞かせてもらった日のことを良く覚えています。
取材したい内容を伝えると耀子さんのお父さんが日記をだしてきました。その
日記には丁寧な文字で耀子さんについてのことが記されていました。耀子さんの首にしこりが出来てなんだろうと思ったこと、微熱が続いていたこと、当初は別の病気と診断されていたこと、がんと診断されたあと耀子さんには病名を告知していなかったこと、そして本格的な治療を受けることになった病院が「九州がんセンター」となったため耀子さんに告知せざるを得なかったことなどを説明してくれました。
この日は耀子さんが亡くなってからまだそれほど時間が経っていなかったこともあって、取材の途中、お母さんは何度も目頭を抑えていました。それでも、お父さんは日記の文字を丹念に追いながら冷静に当時の様子を教えてくれました。
その時の
私の取材ノートには次のようなメモが残されています。
■「6月22日、学校のみんなの前で自分はがんだと告げた」
■「生きる確立は低い」
■「白血球が下がったので治療できなくなった」
■「医師から完治は難しいといわれた」
■「本人が主治医に対して、治療を断った」
治療を断って以降の耀子さんの様子について、私の取材ノートには次のようなことが書かれていました。
■「学校にはいかなくても、グラウンドには行っていた」
■「グラウンドに行って、みんなと一緒にいたい」
耀子さんの甲子園出場に対する想い。そして仲間との一体感。取材メモからも、耀子さんの気持ちが伝わってきます。
3日に行われた楊志館高校の卒業式。野球部の監督でもあり、担任でもあった宮地監督は教室で「よく病気と闘って、頑張ってくれました。我々、一生、絶対忘れませんので、大事にしてください」と言葉を搾り出すように言い、卒業証書を耀子さんのお母さんに手渡しました。
これに対してお母さんは「一緒に卒業できなかったですけど、あの子は今もそばにいると思います」と泣きながらお礼を述べていました。
耀子さんが語ってくれた言葉…「
最高の夏でした」
そして亡くなる直前に病室で仲間に書いて贈ったメッセージ…「
ありがとう」
こうした言葉を残した耀子さんはおそらく「仲間がいたからこそ精一杯生きることができた」と笑顔で伝えたかったのだろうと思います。
卒業おめでとうございます。