赤塚古墳 ( あかつかこふん)
豊と大和の最初の絆
宇佐赤塚古墳は、豊の国大分の古墳時代の開幕を告げる 前方後円墳 である。西暦300年を前後するころ、奈良県大和盆地を基盤に、統一王権の形成を目指した勢力−初期 ヤマト政権 は、大和 山城(やましろ)など畿内中枢部から、まず瀬戸内沿いに西進し、 播磨(はりま) 吉備(きび) 周防(すおう)などの首長と政治的な同盟関係を結びながら九州に進出したものと考えられている。赤塚古墳は、福岡県 京都(みやこ)郡 苅田(かんだ)町の石塚山古墳と並ぶ九州最古の前方後円墳の一つとして、初期ヤマト政権の九州進出の足がかりとなった重要な古墳であり、 宇佐平野 の代々の首長の 奥津城(おくつき)として形成された 川部 高森古墳群 中の初代首長墓である。
〈赤塚古墳の発掘〉
宇佐市大字高森字赤塚にあるこの古墳が、最初に世の注目を浴びたのは大正10年(1921)のことである。同年10月上旬、二人の村民が「赤塚」と呼ばれる古墳を、夜陰に乗じてひそかに発掘したところ、後円部にある 箱式 石棺(せっかん) の中から5面の 青銅鏡 を発見したのである。その情報を伝え聞いた当時気鋭の考古学者梅原末治(元京都大学教授)は、慶州からの帰途にあった同年11月宇佐に立ち寄り、地元の郷土史家南善吉の案内で赤塚古墳を調査することになった。梅原が現地に赴いた時、石棺は既に埋め戻され、内容については聞き取り調査によらなければならなかったようだが、長さ2m、幅60cm、高さ90cmほどの 安山岩(あんざんがん) 製の箱式石棺とされている。5面の鏡のうち、3面を石棺の中央長手方向に立て並べ、真ん中の鏡の前後には、残る2面が同じ方向に立てられ、十字形に配置されていたという。この極めて特殊な鏡の配置が、もし埋葬当初からのものだとすれば、他に類を見ない事例として、あらためてその意味に注目しなければならないだろう。
5面の鏡は、いずれも中国製とみられる優秀なできばえのもので、 三角縁神獣鏡 が4種4面、 盤龍鏡 が1面である。このほか、 碧玉(へきぎょく)製の 管玉(くだたま) 、 鉄刀 、 鉄斧(てっぷ) 、 土器 片などが棺内から出土したという。調査の結果は、梅原によって「豊前国宇佐郡赤塚古墳調査報告」(『考古学雑誌』14巻3号)と題して紹介され、“宇佐赤塚”の名は一躍学界に知れ渡ることになった。
〈赤塚古墳の歴史的位置〉
赤塚古墳が造られた4世紀の初めころ、西日本各地に点々と分布する初期の古墳は、多くの点で強い共通性をもって存在している。これらの古墳は、首長の遺骸を5〜6mにも及ぶ長大な割竹形の 木棺(もっかん) に納めて、扁平な板石を積んだ 竪穴(たてあな)式石室 に葬り、内部には中国製の三角縁神獣鏡を中心とした 銅鏡 や玉類、武器類などを添える。そして規格的な前方後円墳の墳丘を持つといった点で全国的に極めて斉一的な性格を見せている。赤塚古墳の場合、埋葬主体こそ地域の伝統をひいた箱式石棺であるとはいえ、古墳の形、副葬品の内容など、まさに初期古墳の一典型を示すといえよう。
赤塚古墳の性格を特徴づける重要な要素である副葬鏡−三角縁神獣鏡は、同じ元型から数面が鋳造されたようで、これらは細部まで全く同一の文様をもっており、 同笵鏡(どうはんきょう) と呼ばれる。赤塚古墳出土の三角縁神獣鏡にも以下のように各地の古墳で多くの同笵鏡が知られている。
1 鋸歯文(きょしもん)帯四神四獣鏡
赤塚古墳 京都府椿井大塚山古墳 同長法寺南原 古墳 奈良県桜井茶臼山古墳
2唐草文帯二神二獣鏡
赤塚古墳 (伝)岡山県鶴山丸山古墳
3獣文帯三神三獣鏡A
赤塚古墳 (伝)京都府物集女 滋賀県六地蔵岡山 古墳 三重県筒野古墳
4獣文帯三神三獣鏡B
赤塚古墳 福岡県原口古墳 同天神森古墳 同石 塚山古墳(2面) 京都府椿井大塚山古墳
このような同笵鏡を含めた三角縁神獣鏡が、実は大和政権の統一王権への道程を示す重要な意義を担っているのである。各地の首長を政治的な同盟関係を結びながら広域な連合政権の盟主としての地歩を固めつつあった初期ヤマト政権は、自らの盟主権を認めさせる代償として地方首長にこれらの鏡を配布し、前方後円墳を媒介とする共通の葬礼、祭式を地方首長に許認することによって同盟関係の証しとしたものと見られるのである。
全長約58mとさして大きいとはいえない赤塚古墳がとりわけ重要視されるのは、初期ヤマト政権の九州進出の拠点として、宇佐地方が大きな役割を果たしたからにほかならない。後世、仏教の受容、 八幡神 の登場といったこの地方の重要な節目に、それぞれ大和との強い絆で結ばれるが、その最初のきっかけは、宇佐赤塚に始まるといってよいだろう。
[甲斐 忠彦]
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