海防 ( かいぼう)

長い二豊の海岸を防備

〈外圧の始まり〉
  小藩分立 の二豊諸藩のうち、城地が海岸に接しないのは、 岡藩 と、 森藩 の二藩にすぎない。しかし、この二藩も城付地を離れて、それぞれ大分郡 三佐 (大分市)、速見郡 頭成(かしらなり) ( 日出(ひじ)町)に舟付場(港湾)を所有していたから、海と全く無関係ではなかった。18世紀末より、諸外国の艦船が日本の沿岸に接近しはじめた。 幕府 天文方(てんもんがた)の 伊能忠敬(いのうただたか) が、九州測量のため文化7年(1810)に、二豊にやって来たのも、この海防問題と無関係ではなかった。幕府では、文政8年(1825)に「無二念打払令」を出し理由のいかんを問わず、日本海岸に近付く外国船を追い払う命令を布告したが、諸情勢に因み、天保13年に、外国船に対して、燃料や水、食料のみを給与する「薪炭給与令」を公布するとともに、海岸防備を強化した。嘉永6年(1853)アメリカ使節ペリーが、浦賀に来航し、開国を迫るとともに、日本の海防問題は、にわかに 賑(にぎ)やかとなった。これより前の天保13(1842) 14年に、 臼杵藩 では、「軍事 調練(ちょうれん)図」 「異国船渡来之節手配図」 「海岸絵図」などを作成し、幕府に提出した。また、「 軍牒(ぐんちょう)役所」と云う役所を設け、領内 川登(かわのぼり)組に「 川登 鉄炮(てっぽう)卒 」を組織した。これらは、いわゆる「外圧」に対する幕府や藩の対立を示したものである。
〈各藩の軍備〉
 臼杵藩では、ペリー来航前の嘉永2年(1849)に、領内の海岸の水深を調査して、その結果を「海岸深浅図」として整理して幕府に提出した。翌嘉永3年、領内の楠屋鼻(津久見市)に 台場 ( 砲台 )を築造、開国後の文久3年(1836)には、城内 本丸 、 洲崎 、 下り松 、 板知屋(いたちや) 殿ヶ 礁(ばえ) 的場山 (いずれも臼杵市)の6か所に台場を築き、海防に備えた。
熊本藩領 の飛地では、早く文政9年(1826)には、「 郡筒(こおりつつ) 」と呼ぶ鉄砲隊を組織し、 一尺屋(いっしゃくや) (佐賀関町)の町 別当(べっとう)など72人に 苗字帯刀(みょうじたいとう) を許可して、郡筒に編入した。嘉永4年、一尺屋の海岸で 大砲 の発射実験を行い、安政4年(1857)には、 下浦砲台 (佐賀関町)を設けた。
 豊後南端の 佐伯藩 では、文久3年、 女嶋(めじま) の新沖の洲(佐伯市)に台場を設け、大砲の試射を行った。
  周防灘(すおうなだ)に面した 中津藩 では、安政3年(1856)に 山国川 河口の三百間 突堤(とってい)に台場を築き、時態に備えた。
 二豊の諸藩では、このように、海岸の要所に砲台を築造し、海防に備えるとともに、軍制を整えて軍備の強化を図った。
  日出藩 では、文久2年、異国船に対する軍備を定め、遠見番所が設けられた。この番所は、城に近い 八代遠見塚 横津 雲田山 の3か所(いずれも日出町)に設けられ、八代遠見塚には、定番を配置、木砲 望遠鏡のほかのろし施設を設け、洋上に異国船が見えた場合は、合図の木砲を打ち、その打ち方によって異国船の遠近のもようが分かるような規定まで定めている。
 こうした、各藩は、主要な海岸に砲台を設けるとともに、遠見番所などを設定し、洋上における異国船の発見や、攻撃に備えたが、これが実際に利用されることがなかった。
 各藩は、主要な海岸に砲台を設けるとともに、遠見番所などを設定し、洋上における異国船の発見や攻撃に備えたが、これが実際に利用されることはなかった。
〈賀来 惟熊(これたけ)と大砲〉
 このような時局を迎えて、 島原藩 領宇佐郡佐田村( 安心院(あじむ)町)の 賀来惟熊 は、佐田村に溶鉱のための反射炉を建設して、佐田式と呼ばれる大砲を鋳造し、各藩の需要に応じた。惟熊は、安政8年の生まれ、本草学者として有名な 賀来 飛霞(ひか) の 従兄弟(いとこ)に当たる。彼は若いころ、日出の 帆足 万里(ばんり) に学び、万里のすすめによって、大砲の鋳造を志したともいわれる。惟熊の家は、農業兼鍛冶業を営んでいたことから、製鉄知識にくわしく、万里は、弟子の鋳砲家、 関讃蔵 を顧問役として、大砲造りを指導させた。惟熊は、研究の末、変熱溶鉱に不可欠な反射炉や耐火レンガを考案製造し、優秀な大砲鋳造に成功した。燃料としての 石炭 の導入には弟たちも力を貸している。賀来兄弟の技術は高く評価され、文久年間(1864〜63)には、 佐伯藩 に請われて、22門の大砲を鋳造した。 日出藩 に備えられた大砲2門も、惟熊の作品であったという。遠くは鳥取藩までその技術は及んだ。
 幕末期の経済的に苦しい各藩では、こうした軍備金を得るために献金を領民に強い、献金の程度によって、一般農民が、苗字帯刀を許され、もしくは、 御目見格(おめみえかく)や、庄屋格、あるいは郷士の資格を与えられるなど社会秩序を大きく変質する結果を招いた。
[後藤 重巳]

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