神楽 ( かぐら)
幣神楽から岩戸神楽へ
里神楽を俗に神楽と呼んでいる。県内の神楽は、執り物神楽と 岩戸神楽 に大別される。執り物神楽は「 幣(へい)神楽 」と通称され、 直面(ひためん)(面をつけない)で幣 鈴 扇などを執って舞う。旧 臼杵領 の 返閇(へんばい)神楽 と旧 佐伯領 の 佐伯神楽 とがある。岩戸神楽は、神話などを題材とした着面の神楽で、豊前系 国東系 大野系 日向系に分けられる。
〈安永年間から盛んになる〉
各神楽の起源についてはそれぞれ伝承があるが、文献で確認できる年代は次の通りである。大野系の 上津(あげつ)神楽 は年不詳であるが、 十時(ととき)摂津守が田地8反を神楽免として寄進したのは、大友氏が除国される文禄2年(1593)以前であろう。 津島(つしま)神楽 は元和2年(1616)、返閇神楽は正保2年(1645)、 来浦(くのうら)神楽 は貞享3年(1686)、 御嶽(おんだけ)神楽 は享保2年(1717)、 玖珠神楽 は享保5年、 丸市尾(まるいちお)神楽 は享保年間である。
神楽は村々の神社で祭りに奉納されるが、五穀豊熟祈願に毎年1社に寄り合って奉納する例がある。玖珠郡では安永4年(1775)から13社の神主が奉納し、臼杵領でも安永8年から、19社20家の神主が 湯立(ゆたて)神楽 を奉納している。 御嶽社 神主 加藤長古 は御嶽社神楽中興の祖とされるが、明和 安永のころ(1764〜80)の人である。県内で神楽が盛んになるのは安永年間からのようである。
〈神職が神楽を舞う〉
法者(ほしゃ)神楽と呼ばれるように、江戸時代には神事の一環として神職が神楽を奉納している。臼杵の祇園宮神楽役は、熊崎= 三嶋神社 三嶋氏 と中尾= 山王(さんのう)社 矢野氏 であったが、矢野氏の失脚後は西神野=熊野権現社広田氏になる。御嶽社神楽役は御嶽社 祢宜(ねぎ)2名と 祝(はふり)部1名のほか、村々の神社の祠官 社司である、 馬背戸(ませど)組4名、片ヶ瀬組3名、太田組1名、冬原組1名、計12名である。玖珠神楽には10人立ち以上の演目があるので、多数の神主の寄り合う必要が大きい。寛政12年(1800)に参加した神楽は21名である。13社の神主とその家族の参加が考えられる。臼杵領の返閇神楽は19社20家の神主で十分である。安政5年(1858)、 来浦(くのうら)の 牛頭天王社 ( 八坂神社 )で、日乞いのために岩戸神楽を奉納した際には、5名の神主のほかに5名の法社が参加している。法社は神職を補佐する世襲の家で、現在は社家と呼ばれて神楽を舞っていることもある。丸市尾神楽では寄り合える神主家がなかったから、神主家と縁故のある少年を神くじで選んだ。
〈神楽の演劇化〉
蒲江町蒲江浦では、安永3年(1774)に木付(杵築)芝居を招き、寛政4年(1792)の夏祭りからは地狂言を始めている。宝暦8年(1756)、王子宮に神楽殿を創建するのは、執り物神楽にあきたらなかったことが推測される。安永3年 文化11年(1814) 文政4年(1822)には、丸市尾から日向系岩戸神楽を招き、寛政元年には丸市尾の神主家と不和のため、日向国梅木村から岩戸神楽を招いている。8年前に願立てをしたけれども不漁続きで実現が遅れたが、民衆の娯楽に対する強い欲求を看取できる。
大野郡では、神楽は定例的な祭りや、 雨乞い 日乞いなどの臨時の祈願に奉納されるだけではない。天明4年(1784)、宇田枝村百姓3名の発起で、中川侯の武運長久など祈願のために神を天神久保に勧請して、御嶽大権現 木原(きばる)八幡宮 領内大小神社へ大神楽を奉納している。また、文化2年(1804)、柴山組石田村小庄屋の父の依頼で、 太々(だいだい)神楽として13番を奉納している。これらの神楽奉納は表向きはともかく、神楽を楽しみたいというのが本音であろう。民衆の神楽を楽しむ欲求や、 国学 の発達による 神代(じんだい)に関する知識の増加によって、神楽は演劇的要素を濃くする。弘化2年(1845)、御嶽社神楽が創案 追加する 神逐(かむやらい)や降臨は、演劇的ないわゆる岩戸神楽に入る。
民衆の要望に応じて、神楽が演劇性を濃くすることは必ずしも順調ではなかった。弘化2年、 城原(きばる)八幡宮 の 日野淡路守 から、次のような触が領内の主要な神主たちに伝達される。近年、神話を題材とした神楽が、数多く組み立てられているようである。神慮をないがしろにし、神道の本意に背き、吉田管領家に対しても不忠である。今後は鬼面 男面 女面や、 毛頭(がっそう) 大口 裁着(たつつけ) 鎧(よろい)などを着用してはならない。また、受持ち外の神社に招かれて神楽を奉納することにも言及し、演劇性を濃くする神楽が広く受け容れられている状況を記し、神道繁栄に見えるけれども、 所詮(しょせん)は物 真似(まね)に過ぎないなど、神楽の演劇化に強い不快感を表わしている。
江戸時代の法者神楽から農民神楽への近代化を促したのは、神主が神楽を舞うことを明治維新政府が禁止したことである。神楽の奉納されない祭りは考えられなくなっていたので、氏子に伝授して神楽組が成立する。
[染矢 多喜男]
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