懸仏 ( かけぼとけ)
神社に祀られた仏
懸仏は、平安時代のいわゆる神仏習合 本地垂迹(ほんちすいじゃく)(日本の神々の本地は仏菩薩であるという考え方)の考え方から生まれたものである。そのため明治の神仏分離の時まで、ほとんどの懸仏は神社に 祀(まつ)られていた。最初は神道で御神体とされていた鏡に、その神の本地仏を 毛彫(けぼり)したり朱墨で描いたりしたものであった。これら平面的なものは鏡像と呼ばれている。平安時代も半ば以降になると、尊像を半肉彫にしたものなどが作られるようになり、13世紀ごろになると丸彫に近い像を取り付けるようになる。このように立体的になったものが懸仏である。ただし懸仏の呼称は、明治時代以降になって使用されるようになったもので、それまでは銘文などからみて「 御正躰(みしょうたい)」と呼ばれていたことが分かる(例. 胎蔵寺(たいぞうじ)懸仏など)。様式は、古くは仏像だけであったものが、しだいに 天蓋(てんがい) 花瓶(けびょう)瀬 波形などの装飾が付されるようになり、それに伴って仏像は小型化している。 吊(つ)り金具も最初は孔だけであったものが、 花葉(かしょう)形の 鐶座(かんざ)を付けるようになり鎌倉時代末ごろには 獅噛座(しかみざ)に代わっていく。銅製がほとんどであるが、木 鉄を素材としたものもある。しかし現在のところ県内では銅製以外は見ることができない。大分県は、九州では懸仏重要資料の最も豊富な地域といわれ、平安時代後期から室町時代後期までのものが約280面ほど確認されている。内訳は平安時代と推定されるもの2面で、他は室町時代を中心とした中世の作例である。江戸時代のものも何例か見られるが、現時点ではほとんど未調査の段階である。
〈県内に残る懸仏〉
代表的なものを時代順に何点か取りあげてみる。平安時代の作例は前津江村大字大野 大野 老松(おいまつ)天満社 蔵の207面の懸仏の中にある。延久3年(1071) 日田郡司 大蔵大夫永季(おおくらたゆうながすえ) が創建したと伝えられる神社で、1か所にこのように大量の懸仏が奉納されている例は県内では他にない。時代は平安時代の2面をはじめ、鎌倉時代10例余、以下南北朝室町時代が大半を占める。平安時代のものは、 薬師如来(やくしにょらい)像懸仏と十一面観音鏡像である。前者は巾の狭い 覆輪(ふくりん)をめぐらし通形の薬師如来坐像を 鋲(びょう)留めにしている。蓮弁 衣紋等細かく丁寧な彫りである。吊り金具は花葉形鐶座。後者は鋳造双耳付円鏡に十一面観音坐像を毛彫りした鏡像である。次に鎌倉時代を代表する例として、国東町大字横手 神宮寺(じんぐうじ) の懸仏をあげることができる。同寺には計8面の懸仏があるが、近くの山頂にあった嶽ノ権現社の御正体であったと伝えられている。中の1面の裏面1枚板に「正応五 三月日 刑部亟平安□」の墨書がある。正応5年(1292)に奉納されたことが分かり、紀年銘懸仏としては現在のところ県内で最古である。刑部亟平安□は、 国東郷 の地頭であった北条氏の一族かと推定する説もあるが確証はない。他の7面は無名であるが、鎌倉時代から室町時代初期にかけてのものである。正応5年銘の懸仏は 千手(せんじゅ)観音坐像を (ほぞ)留めにし、両側に花瓶を鋲留めにしたもので鐶座は獅噛座である。完全な形の獅噛座としては、日本でも最も古い時期のものである。別府市個人蔵の鏡像は、白銅製の鏡面に不動明王の 種子(しゅじ)(カーン)を力強く彫ったもので、元亨2年(1322)の年号がある。種子鏡像としては県内では唯一のものである。豊後高田市大字平野の 胎蔵寺 には鎌倉時代から室町時代にかけての懸仏3面がある。寺の背後の山腹にある 熊野権現(くまのごんげん)社 の御正体を、明治初年に同寺に移したと伝えられている。このうち 阿弥陀(あみだ)三尊懸仏は、径53.5pと大きく阿弥陀三尊像を鋳付けている。一鋳式懸仏の南限的基準作として重要であるといわれている(岡崎譲治「九州の懸仏−北部九州の群集遺品を中心に−」)。たがね彫りの銘文が、円板の縁にそってあるいは三尊の下などに次のように刻されている。「六郷本山今熊野御正体也 建武 二(二)年 丁(丑)十二月十五日願主倉成沙弥道妙 大観進金剛佛子興済 筆者僧秀尊大徳 大結衆等各敬白 妙心 妙覚 妙縁(以下略)」。これにより建武4年(1337)に倉成沙弥道妙が願主となり、観進僧興済の働きで多くの人々が 作善(さくぜん)(善行をなすこと、仏や僧などへの供養、写経などの仏教的善行)として作り奉納したことが判明する。筆者僧秀尊は銘文の作者の意であろう。また「六郷本山今熊野御正躰」の文字からは、 六郷満山 と 熊野 修験(しゅげん) の結び付きがうかがえる。六郷満山の信仰的背景の推移を知る上でも貴重なものである。室町時代の例としては、久住町大字久住の 久住神社 蔵の10面をあげておく。最大のもので径20.8p、最小のものは9.3pと小さいが、裏面板に墨書があり、直入郡 白仁(しらに) 南山城(なんざん) 主 志賀 道雲(どううん) 鎮隆(しげたか) 親子とその一門が奉納したとある。道雲は豊後 南郡(なんぐん)衆 の1人で、大友家臣団中では大きな力を有していた。しかし天正14年(1586)の 島津侵攻 の際には島津方についている。歴史資料としても貴重である。
参考文献 「鏡像と懸仏」(『日本の美術』284) 今熊順證『大分の懸仏』
[小泊 立矢]
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