空襲 ( くうしゅう)
夜空をこがす大分大空襲
〈防空訓練〉
昭和17年(1942)4月20日の帝都空襲は、その後の戦局の推移に甚大な影響を与えるが、特に従来からも行っていた防空訓練の見直し、さらに本土空襲に対する防空体制の強化と、防空業務の訓練と設備資材の整備を日常生活の中に実践させることが必要となった。18年1月8日、県は警察署、地方事務所、市町村、学校の所属長に対して「防空実践日」の制定に関する 通牒(つうちょう)を出し、実施事項として 防空訓練 、防空設備資材の整備、「時局防空必携」の事項の検討など防空生活の実践を求め、具体的な実施計画の報告を指示した(『大分県報』)。さらに同年11月19日には各市町村長、学校長に対して、「昭和5年以降毎年12月1日ヲ期シ全国一斉ニ防火日運動ヲ実施シ大ナル効果ヲ収メ来リタル所ナルガ、時局下 愈々(いよいよ)防火ノ緊要性ニ鑑ミ引続キ本年モ亦12月1日ヲ期シ全国一斉ニ実施スルコトト相成候ニ就テハ別紙要綱ニ依リ関係方面ト相互協調シ、夫々地方ノ実情ニ即シタル計画ヲ樹立シ、実質的ニ効果アル方法ニ依リ実施相成ル云々」と詳細な具体的な実施事項を示して、県民の即応体制がとれるよう訓練することを要求している(『大分県報』)。
〈大分初空襲〉
「敵艦上機九州南部東部に波状来襲、所在の我部隊これを邀撃」の見出しで、「大本営発表(昭和20年3月18日13時30分)敵機動部隊九州東南海面に現出、其の艦上機は本3月18日6時過ぎより、主として九州南部東部地区に波状的に来襲しつつあり、所在の我部隊は之を邀撃、相当の戦火を収めつつあり」と報じている(『 大分合同新聞 』3月19日号)。同日の『 朝日新聞 』にも「夕刻までに延1,400機が九州各地、四国などに来襲した」とあるが、大分県内のことには全くふれていない。鹿児島県 鹿屋(かのや)に基地を置く 第5航空艦隊 の『作戦記録』(防衛研究所図書館蔵)の3月17日の項に、14日頃敵機動部隊がウルシーを出撃しており、18日頃に九州方面に来攻する公算が大であり、厳重警戒を要すと記されており、18日には「敵機ハ連続南九州、四国方面航空基地ニ来襲攻撃ス」とある。沖縄上陸を目前に、18 19日九州南東海域にアメリカ機動艦隊が接近、艦上機が18日早朝より大分 宇佐の 海軍航空隊 や大分市の 第12海軍航空廠 を波状的に攻撃して来た。 佐伯防備隊 の『戦闘詳報』(防衛研究所図書館蔵)の3月18日には「0840(8時40分)天候概ネ晴視界稍不良風速2〜3米 敵戦闘機(グラマン スコルセーア)大入島方向ヨリ高度3千乃至4千ヲ以テ佐伯市ニ向フ(伯空機銃打方始メ) 0845 16機当隊病舎各船艇ニ対シ機銃掃射打方始メ 女島高射砲並ニ野岡山機銃陣地各船艇攻撃開始(敵戦闘機30佐伯空、襲撃地上機1機、東海1機炎上 0920 彦嶽方向ヨリ敵4機大入島付近分散船艇ニ対シ機銃掃射、之ニ応戦(敵7機佐伯空機銃掃射 伯空機銃打方始メ)12機尺間山上空ヨリ臼杵山方向ニ向フ」とある。この日が県下への初の空襲であった。
〈大分大空襲〉
県下は米軍の本土空襲の通路となり、連日のように足摺岬上空から 豊後水道 を B29 や艦上機が北上し、県下各地で無差別爆撃や機銃掃射による犠牲者がふえていく。特に第12海軍航空廠における 勤労動員 中の学徒の爆死や7月25日の 保戸島(ほとじま)小学校 への襲撃など、県下も厳しい局面にさらされる。特に県都大分市では、7月16日夜半から17日未明にかけて、B29による 焼夷弾(しょういだん)攻撃を受けて、市の中心部2,358戸が焼失するという大被害を受けた。 18日の『大分合同新聞』には、西部軍管区司令部発表として「マリアナ基地のB29、30数機は、16日22時45分頃より先ず数機を以て豊後水道に侵入、国東半島付近及び山口県下を旋回、ついで主力約30機は23時50分頃より四国西岸を経て逐次大分市に侵入、17日零時10分頃より約1時間半に亘り、同市及びその付近を焼夷攻撃の後1時50分頃までに佐伯南方より脱去した。」そして、「これがため大分市内及びその付近各所に火災発生せるも官民よく敢闘し、17日4時30分頃迄に概ね鎮火せり」と報じている。さらに「火と燃ゆ大分市民の 敵愾心(てきがいしん)、断じて落とすな生産、武藤大分地区司令官の激励」「食糧や医療に万全 三好大分市長市民に告ぐ」との記事が18日に載り、19日には「雄々しく起上る大分市、此の復仇は増産だ。家族総掛りで応急住宅」「義勇隊を急派、別府市の隣人愛」など士気を鼓舞する記事が紙面を埋めている。また大分市を巡視した 中村 元治(もとはる) 知事 は「戦災地を一巡して痛感したことは市内の枢要地がすでに家屋 疎開 を完了していたため死傷者は意外に少なく、延焼家屋が極めて少数だったことである。」として、敵機襲来と同時に初期消火に敢闘した市民の働きや防空に対する万全の準備に感謝している。しかし8月15日までは、空襲は続くのである。
参考文献 大分の空襲を記録する会『大分の空襲』
[吉田 豊治]
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