安国寺 ( あんこくじ)

足利尊氏像を伝える寺

 建武4年(1337)ころ、 足利 尊氏(たかうじ) 直義(ただよし) の兄弟は 夢窓疎石(むそうそせき) (鎌倉末 南北朝時代の禅僧、天龍寺を建立)のすすめによって、全国66国2島に1寺1塔を造立する大願をおこした。安国寺 利生塔(りしょうとう)の造立である。ただし安国寺 利生塔の呼称は、貞和元年(1345)に 光厳院(こうごんいん)の 院宣(いんぜん)を得た後に称されるようになったものである。 仏舎利(ぶっしゃり)を奉安し、 後醍醐(ごだいご)天皇 をはじめ 元弘(げんこう)の乱(鎌倉幕府討伐のために、後醍醐天皇が企てた乱)以後の南北朝争乱の戦死者を弔うためといわれている。しかし他方では新興の 禅宗 勢力を利用して民心を 収攬(しゅうらん)するという目的や、禅宗五山派の地方発展の拠点にするという宗教的な目的もあったという。建武5年(1338)の和泉国(大阪府)久米田寺の利生塔造立を最初として、全国的には貞和年間(1345〜49)ころまでに造立 設定されている。新たに造立された寺は少なく、大半はそれまであった寺を安国寺としている。66国2島に1寺1塔を設置するとあるが、実際には寺 塔両方を備える国は10か国だけであった。九州では筑後 日向 薩摩の3国である。残りは利生塔だけの国が4か国で、大半は安国寺のみの設置であった。
〈豊後の安国寺〉
 南北朝時代も末期になると、安国寺 利生塔設立の機運はうすれ、 足利 義満(よしみつ) が将軍となるころ(1370年ころ)には全く有名無実のものとなってしまう。義満はむしろ五山 十 刹(さつ)の官寺の制を強化充実する政策をとっている。このように安国寺の設置がほとんど不要になったと考えられる時期の応永年間(1394〜1428)に開かれたと伝えられるのが、豊後の安国寺である。現在国東町大字安国寺にある太陽山安国寺がそれで、『 豊後国志(ぶんごこくし) 』『 豊鐘善鳴録(ほうしょうぜんめいろく) 』などによると 絶海中津(ぜっかいちゅうしん) (室町初期の禅僧、漢詩文にすぐれ、五山文学の中心の1人)が開いたとある。もし絶海中津であるとするならば、彼の死去する応永12年(1405)までの間の創設ということであろうか。しかしここで問題になるのは、全国的に安国寺の開設が不要となった時期になぜ豊後の安国寺が開かれたかということである。南北朝時代の国東の地に覇を唱えた 田原氏 の動きからそれを追ってみる。田原氏の祖 泰広(やすひろ) は、鎌倉時代中期に 田原 別符(べっぷ) (大田村)の地頭職を手に入れ田原氏発展のもとを築く。2代 基直(もとなお) には2人の子供がいた。兄 盛直(もりなお) は 沓掛(くつかけ)城 (大田村)を築き 沓掛田原氏 の祖となり、弟 直貞(なおさだ) が本流を継ぐ。その子貞広は観応2年(1351)に 飯塚(いいずか)城 (国東町)を築きここに移っている。いわゆる 国東田原氏 である。彼等は南北朝の争乱では 北朝 方につき、足利尊氏の信頼を得ている。文和2年(1353)に 貞広(さだひろ) が 針摺山(はりすりやま) で戦死すると、尊氏は貞広の父直貞に感状を出すほどであった。貞広の妻 無伝仁公尼 は、 無著(むちゃく)禅師 を請じて 泉福寺(せんぷくじ) ( 曹洞宗 国東町)を開き、子供の1人に 南溟(なんめい)禅師 がいることなどからみて、貞広も禅宗にはある程度の理解を持っていたと思われる。南溟禅師は 今川了俊(いまがわりょうしゅん) の援助によって 貞永寺(ていえいじ)(静岡県大浜町)の再興を行っている。同寺は貞永元年(1345)の開創と伝えられ、遠州安国寺に指定された寺である。また当時豊後の臨済禅の中心であった 万寿寺(まんじゅじ) (大分市)には、たびたび高僧の来訪があり、 中巌円月(ちゅうがんえんげつ) (南北朝時代の禅僧 漢詩文にすぐれ五山文学の中心の1人)などは国東の地にも足を運んでいる。以上のようなことから考えて、貞広自身の禅宗への理解の深さと尊氏らの安国寺造立の趣旨とが重なり、豊後の安国寺創建は貞広の飯塚城築城とほぼ同時期の観応2年ごろということになろう。それでは「応永年中」に開くという伝えは根拠のないものであろうか。永和元年(1375)、無著禅師が泉福寺を開くと、多くの弟子が集まる。彼等は次第に国東半島西部から豊後北部 豊前地方に寺を開いていく。新たに寺を作るのではなく、衰退した天台宗寺院に入るという例も多かった。そのピークが「応永年中」だったのである。田原氏は貞広の子 氏能(うじよし) のあと勢力は衰えていく。安国寺も 外護(げご)者の勢力縮小とともに十分な活動もできず、応永年間に再興をはかったのが「応永年中」に開くということになったのであろう。すなわち、応永年中は豊後安国寺の再興の時期なのである。
〈木造足利尊氏坐像〉
 安国寺には県指定有形文化財の、 木造伝足利尊氏坐像 1躯が安置されている。もと京都山科の願王山地蔵寺に安置されていた像である。康永年間(1342〜45)に尊氏が開いたと伝えられる地蔵寺は、明治11年(1878)に廃寺となり本像は同地の華山寺に保管される。明治39年に時の安国寺住職 後藤宗旭師 が、同寺から譲り受けている。檜材の寄木造で彩色が施されている。総高92p。束帯を着け冠をいただき、 笏(しゃく)を持って安坐する姿である。表現様式が著しく類型化していることから、室町末から桃山時代ごろの作といわれる。
 参考文献 今枝愛真『禅宗の歴史』 辻善之助「安国寺利生塔考」
[小泊 立矢]

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