国東郷 ( くにさきごう)

唯一宇佐神宮領とならなかったのは何故か

〈鎌倉時代 国衙(こくが)領〉
 平安中期の『 和名抄(わみょうしょう) 』に、 国埼(くにさき)郡7郷の一つとして見える郷名。平安初期の延暦15年(796)に瀬戸内海交通の要衝として見える 国埼津(くにさきのつ) も当郷の港であろう(『 類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく) 』)。鎌倉中期の弘長3年(1263)の「諸富名主沙弥西秀譲状」には「国東御領」とあって、「国東郷」の表現をとっていない。 諸富名(もろどみみょう) は 田深(たぶか)川 中流部の現国東町大字中田から山吹にかけて散在していた水田のみで18町歩を越す領主名で、門田 公田 門畠 在家 山田等に分類して収取されており、長男 紀秀頼(きのひでより) に3分の2、次男 秀隆(ひでたか) に3分の1が譲られている(「 志賀文書 」)。秀隆分は、 大友氏 へ譲られ、 志賀氏 に伝領された。弘安8年(1285)の「 豊後国 図田帳(ずでんちょう) 」では「国領国東郷三百町、領家松殿二位中将御跡、地頭職信濃伊勢入道殿跡」とのみ見える。領家の松殿二位中将とは関白 基房(もとふさ)の4男 忠房(ただふさ)の子 良嗣(よしつぐ)、信濃伊勢入道は二階堂信濃入道の兄、執事従五位下伊予守 行綱(ゆきつな)の子伊勢守 盛綱(もりつな)入道 行真(ぎょうしん)のことと比定されている。嘉暦3年(1328)、 来浦(くのうら)地頭 職(しき)のことで、後家良全の親父田口蔵人治郎入道正月が当浦へ乱入し、伊勢孫太郎 親景(ちかかげ)の母 妙円(みょうえん)の再夫七郎 貞景(さだかげ)等を追い出し、放火 狼藉(ろうぜき)を行ったという訴えがあった(「 大友史料 」)。来浦の谷には、 二階堂氏 の一族の者が移り住んで 伊勢氏 を称していたらしい。元弘2年(1332)の「 由原(ゆすはら)八幡年中行事次第 」には、五月会、 放生会(ほうじょうえ) などに国東郷が諸種の役目を努めることになっており、乾元2年(1303)には生石浜での放生会に参加した国東郷分の船がやって来る途中破損したため、神事が延期されている。 国衙領 として強く把握されていたことがわかる。
〈室町時代−激しい武士の争い〉
 建武3年(1336)、 富来弥五郎 忠茂(ただしげ) 、同次郎 忠挙(ただたか) は前年8月より将軍に供奉した。 富来氏 は鎌倉中期の宝治元年(1247)、御家人 富来又次郎 が豊前国 野仲郷 内 是則名 地頭職を得たが、 大和壱岐入道 昇蓮(しょうれん) ( 宇都宮 景房(かげふさ) )が 押領(おうりょう)していると訴えている(「 永弘文書 」)。 菩提寺(ぼだいじ) 万弘寺(まんこうじ) の文和3年(1354)の 釈迦(しゃか)如来胎内銘に「紀杢之助忠義…嫡子紀兵庫允忠挙、同紀忠時、同殊法麿」と 紀氏 を称しており、 国東半島 の 在庁官人(ざいちょうかんじん)の系譜をひく御家人であった。おそらくは、二階堂氏が国東郷の 総地頭 で、田深川流域を支配していたのに対し、来浦に伊勢氏、富来浦に富来氏といった浦々に 小地頭 がいたらしい。建武4年の「六郷山本中末寺次第并 四至(しいじ)等注文案」(「永弘文書」)には岩戸寺領は伊勢民部入道が押領していると注申している。観応2年(1351)正月、 田原 貞広(さだひろ) が国東郷地頭職(信濃入道行珍跡)を勲功の賞として尊氏より獲得した(「 入江文書 」)。貞広は、すぐ子息 氏能(うじよし)にゆずった。氏能は 田原 別符(べっぷ) より国東郷に本拠地を移した。しかし、来浦 富来 小原 上諸吉等は富来忠茂以下の在地領主の抵抗にあって田原氏の入部は難渋し、翌年11月、 鎮西管領(ちんぜいかんれい) 一色道猷(いっしきどうゆう) は 守護 大友 氏時(うじとき) に国東郷の打渡しを命じた(「入江文書」)。文和2年(1353)には、来浦地頭職(伊勢諸太郎跡)を富来木工助(忠茂)が一色道猷から得た(「大友史料」)。このため、田原氏と富来氏との関係が一段と悪化することとなった。同3年、僧光然は、 田原氏能 へ郷内立野村の田畠山野を譲っている(「志賀文書」)。延文元年(1356)富来五郎、同杢助入道らは一色道猷に同道して上洛し、その忠節を賞せられた。同5年、田原氏能は重ねて上諸吉 来浦 富来 小原の打渡しを願い、 足利 義詮(よしあきら) は守護大友氏時に、富来杢助入道正寿、同子息兵庫允等の 濫妨(らんぼう)を 斥(しりぞ)けしめた(「入江文書」)。貞治4年(1365)、来浦鎮守 牛頭(ごず)天王社 の社殿が田原氏能 沙弥(しゃみ)正受(富来忠茂ヵ)等によって建立されている(「大友史料」)。正受が富来忠茂ならば来浦の総地頭、小地頭問題が解決していることになる。
 応安2年(1369)、田原氏能は 北朝 方として郷内 雄渡牟礼(おどむれ)城 に 篭城(ろうじょう)中、懐妊した夫人へ討死に備えて譲状を認めた(「大友史料」)。雄渡牟礼城(国東町上成仏)の初見である。応安4年、田原氏能は 今川義範(いまがわよしのり) の手に属し、 備後尾道(びんごおのみち)より乗船し 高崎山 に篭城した。 南朝 方は 菊池 武光(たけみつ) の 若党(わかとう) 平賀新左衛門尉 を国東郷の要害に配置したので、田原氏能は手勢を送ってこれを追落した(「 田原系図 」)。永和元年(1376)、田原氏能は当郷横手に 無著妙融(むちゃくみょうゆう) を招き、 泉福寺(せんぷくじ) を創建した。やがて 曹洞宗(そうとうしゅう) の九州流布の拠点となった(「 泉福寺文書 」)。康暦元年(1379)、田原氏能が子息徳一丸( 親貞(ちかさだ))へ譲った所領中に国東郷 武蔵郷 安岐(あき)郷 等の地頭職が含まれている。明徳3年(1392)、富来村は 富来木工助正寿 跡の人々に一円 領掌(りょうしょう)せしむる 御教書(みぎょうしょ)が出た。 田原三郎親貞 は先日半分拝領したのを不満として愁訴したが、その半分も富来氏へ返却させられることになった(「入江文書」)。応永2年(1395)ころ、田原一族3人と 吉弘氏 (田原分家)は幕府 小番衆(こばんしゅう) として将軍直属であったが、遠国のため、国にとどまって御所奉公の名字を残すことになった(「大友史料」)。応永29年、武蔵郷 椿(つばき)八幡 の社殿を寄進した 田原 親幸(ちかゆき) は 大友 持直(もちなお) の重臣として招かれ、のち筑後国代官職に就いたらしい(「草野文書」)。永享2年(1430)、大友持直は 富来彦三郎 へ富来浦 加田久(堅来) 深井(深江)等を 安堵(あんど)した(「大友史料」)。このころ、 田原 親勝(ちかかつ) は 被官(ひかん)へ国東 武蔵郷内に 知行地(ちぎょうち)を与え、来浦村の地を来浦 政所(まんどころ) に打渡させている(「大友史料」)。田原氏が国東の地をしっかり掌握していたことがわかる。永享8年(1436)6月、 姫岳(ひめだけ) の大友持直方着到者中に、田原氏と富来氏がそれぞれ2名いる。このころ、大友持直と対立していた 大友 親綱(ちかつな) は、 富来出雲入道 に名字地当知行分を安堵した。国東郷内の武士も、大友氏の分裂によって両派に分かれたらしい。永享11年、享徳3年(1354)に来浦牛頭天王社の社殿を 田原 親範(ちかのり) 氏忠(うじただ) が寄進して来浦の支配者であることを物語っているが、このあと本領を没収されたらしく、 大友 親隆(ちかたか) が、田原親幸へ本知行国東郷 武蔵郷等を 還補(げんぷ)している(「大友史料」)。大友持直との関係であろう。文明3年(1471)4月から同10年まで、 田原治部少輔 親盛(ちかもり) (のち親宗か)は長門国へ亡命し、赤間関 阿弥陀(あみだ)寺領半分を兵粮料所として預置かれている(「大友史料」)。同16年ころ、 田原 親宗(ちかむね) は筑後詰郡代官を勤めているが、国東郷 桜宮(さくらのみや)八幡宮 の内殿三宇と鐘楼一宇を寄進し、田原氏の氏神化をすすめた。田原親宗は 大友 政親(まさちか) 義右(よしすけ)父子の対立に巻き込まれ、 大友義右 によって攻められ、安岐郷 箕崎(みのざき)において戦死した。文亀元年(1501)ころ、 大友 親治(ちかはる) と 大内 義興(よしおき) の豊前争奪戦の最中、 田原二郎 親述(ちかのぶ) が大友氏に 叛(そむ)いたため、 富来彦三郎 らは雄渡牟礼城に篭城して、大友本隊の来援を待った功労で来浦60町分その他を預置かれた(「 万弘寺文書 」)。永正14年(1517)ころ、田原親述兄弟は筑前 立花城 にいて、帰国の機会を 窺(うかが)っていたが実現しなかったらしい。 大友 義長(よしなが) はその条々で「田原兄弟三人之事、子々孫々及も許容有間敷候」と述べ、 無足不涯(むそくふがい)の家臣を国東に移住させよと云い残している(「大友史料」)。天文元年(1532)ころ、 大友 義鑑(よしあき) は国東郷半分代官職を 富来民部少輔 へ与えた(「大友史料」)。このころ、 田原 親董(ちかただ) は筑前立花城に詰めていて帰国の機を窺い、 大内 義隆(よしたか) の海陸よりの支援を得て国東の地へ上陸しようとしたが失敗した(「万弘寺文書」)。天文18年ころ、 富来新五郎 のために、同民部少輔が戦死し、子息彦三郎に家督が安堵された。富来氏内部にも分裂の徴候があらわれている。このころ、 田原次郎 親実(ちかざね) (のち 親宏(ちかひろ))は、大友義鑑の怒りにふれ、 周防(すおう)山口へ亡命していたが、 大友 義鎮(よししげ) が家督を嗣ぐと、 佗言(わびごと)をつづけ帰国を許された(「大友史料」)。やがて、武蔵 田原 親資(ちかすけ) に預けられていた安岐郷 国東郷両政所職等と旧領の一部を返還された(「大友史料」)。富来彦三郎の国東半郷役職や給地等も田原親実に返還されたらしく、富来彦三郎へは筑後国の秋月氏の先給地を代所として与えられた(「万弘寺文書」)。以後、 田原親宏 は豊前方面の戦闘での中心として活躍し、その地に多くの給地や被官を得た。しかし、永禄4年(1561)11月の 門司(もじ)城 争奪戦での大友方大敗で、田原親宏も多数の家臣を失って、かろうじて帰国した(「 津崎文書 」)。永禄8年、 厚東新五郎 へ 厚東隠岐入道 当知行分長田上表地水原村栗迫 山田等を安堵した。田原親宏( 宗亀(そうき))は元亀3年(1572) 如法寺親並(にょほうじちかなみ) へ 萱島(かやしま)弥五郎 先給内、河原村字随源太川山野并畠地等を預け 遺(のこ)し、また来浦役職を 津崎七郎 へ安堵し、天正4年(1576)、来浦牛頭天王社の社殿を寄進した。天正6年、 耳川(みみかわ) の大敗後、 田原宗亀 は大友家 加判衆(かばんしゅう) を務めるよう要請されたが、1か月もたたず、突然帰郷し、国東郷 安岐郷の旧領を要求して挙兵の構えをみせた(「大友史料」)。宗麟はこれを慰撫し、宗麟の子新九郎親家を田原家督とするという条件で宗亀の要求を受け入れた(「入江文書」)。天正8年ころ、 小田原鎮郷(こだわらしげさと) は国東郷内20貫分を上表し、そのかわり、 直入郷 の居屋敷分の 万雑諸点役(まんぞうしょてんやく)免除と検断不入を許された(『 大友家文書録 』)。このため、 秋月氏 の血をひく 田原 親貫(ちかつら) は宗亀の死後まもなく挙兵して 安岐城 に 篭(こも)り、さらに 鞍懸(くらかけ)城 (豊後高田市)へ篭城し、半年以上も大友氏と戦って滅びた(「大友史料」)。 宗麟(そうりん) の子 親家(ちかいえ) は、宗麟と宗亀の密約成立の1年後(天正8年2月)、親貫と 袂(たもと)を別った 津崎大和入道 萱島美濃入道 らに迎えられて雄渡牟礼城へ登城し、 屋山(ややま)の 吉弘 統運(むねゆき) と連絡をとって、浦側より安岐城 鞍懸城を攻めようとしたが、赤松村に国東郷 安岐郷の者が楯篭って抵抗する構えをみせた(「 萱島文書 」)。10月、安岐城 鞍懸城は相ついで落城し、以後、大友氏 改易(かいえき)まで15年間国東の地を支配した。
 大友氏改易後は、豊臣秀吉子飼いの部将 垣見一直(かきみかずなお) が2万石を与えられて、富来氏の居城跡に築城したが、 関ヶ原の合戦 に石田 三成(みつなり)方となったため、 黒田 如水(じょすい) に攻略され、如水は 上原新左衛門 を城番として豊前中津へ引き上げた。
 関ヶ原合戦後、 細川 忠興(ただおき) が豊前8郡と豊後2郡6万石の知行を得て、 小倉城 に入り、 富来城 は破却された。
 参考文献 『国東町史』
[竹本 弘文]

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