窪田治部右衛門 ( くぼたじぶうえもん)
戦火を避けた郡代
1813−18 最後の 西国筋郡代 (1864〜68)。
窪田治部右衛門 鎮勝(しげかつ)は元治元年(1864)中津に上陸、3月6日 四日市陣屋 で郡々の惣代庄屋の挨拶を受け翌日出発、3月8日豆田室町の町年寄 三松寛右衛門 宅に入る。屋代前郡代は陣屋を出て豆田下町町年寄中村豊作方に入った。10日窪田郡代は陣屋に入り、午後2時から郡々の 庄屋 総代を陣屋の白州に集め前郡代の元締 吉田隣助 と新郡代の元締 島田匡蔵 が立合いのもと郷村御引渡し 御引受の申し渡しがおこなわれた。3月13日窪田郡代は郡々の総代庄屋を御役所に呼び集め、着任の挨拶をした。農家のつとめが肝要であることを力説した。
〈東奔西走〉
3月15日出発天草巡視に出かけて4月生まれ故郷の熊本から単騎で帰館。7月28日松浦郡巡視に出かけ、長崎に足をのばし長崎奉行と会見、再び天草島巡視、熊本を経て日向富高に行く予定であったが、小倉藩使者来訪で日田に引き返す。熊本から急ぎ帰陣、小倉藩は 長州戦争 の軍資金の借用の周旋を依頼したので郡代は 豆田 隈 両町 郡 方(がた)の富豪を13名集め小倉藩へ1万両の出金を命じた。8月には北九州の東部海岸を視察、長州戦争に備える対策を考えた。
〈小倉戦争と兵粮運搬人足〉
第2次長州征伐が始まると郡代は部下の役人と出陣、老中の命により1,000石につき5人あての人足を出すことになった。人足は20日交替で出役、日田 玖珠 下毛 直入 浦松郡の庄屋総代も順番をきめ20日交替で出役を命じられた。6月10日、会所詰庄屋は小倉の陣所に大釜 水桶 笊(ざる) 切桶 4斗樽、1斗樽を会計28、炊き出し人足30人を送り出した。同月16日から7月1日にかけて10回にわたり350人の人足と梅干4斗樽入15、香ノ物入樽8、竹の皮12把、 松明(たいまつ)30荷を送り届けている。
〈兵賦差し出し令と制勝組(農兵隊)〉
幕府の天領民に対する徴兵令ともいうべき兵賦差し出しの命令が元治元年と翌年の慶応元年に郡代役所に達し、翌2年2月までに高1,000石につき1名あて強壮な者を差し出せとの 沙汰(さた)があった。遠国は正兵を江戸に出す代りに金納にしてもよい。本年3月から月割で上納の積りで掛高を調べよとのこと。郡代は兵賦差し出し方猶予を申し立てたが許されなかった。郡代の支配高16万4,000石余で兵賦164人となる。これを金納にすると毎年1万3,776両を上納しなければならぬ。小倉表人足御手当を辞退するので兵賦代納金も免除して欲しいと願い出たが認められなかった。しかし小倉戦争で幕軍が敗退、 小倉城 消失という情勢の変化で兵賦差し出しは免除となった。その代わり土着の 農兵 を出し警備を一層厳重にせよとの幕命に従って、9月10日農兵徴募を廻状によって村々に通達した。こうして集った農兵隊が 制勝組 と名付けられ、その教育 訓練 火器の整備がおこなわれた。制勝組は日田郡11小隊、玖珠郡2小隊下毛郡5小隊であった。小隊には頭取と呼ばれた隊長がおかれた。主要道路の入口には棚門が設けられ、制勝組兵士に農民も加わり日夜警備に当たった。
〈小倉落城と日田〉
長州軍の上陸で幕軍は敗退し小倉藩は城に火を放って田川郡香原へ落ちのびた。その翌日窪田郡代は東添田を経由して一騎駆けで、8月2日午前10時ころ日田に帰着。同日晩刻まで小倉から600人ほどの軍士が豆田 隈両町に入り込み、その宿舎の割り当てがおこなわれた。長州軍の侵入を恐れた両町民は不安のため諸道具を 在方(ざいかた)へ運び始め大騒動となった。
〈窪田郡代の幕府への建言と制勝組の訓練〉
郡代は慶応2年12月2日上坂、同3年2月18日帰陣までに当局に建言をおこなった。郡代は日田、玖珠、下毛、 怡土(いと)、天草郡を支配、防備体制を強化する。それ以外の支配下の天領は近くの藩に預けること。非常の場合の軍事費支出は臨機の取り計いができるよう予め委任をいただきたいことなどである。その結果、肥前松浦郡は島原侯、豊前四日市付の宇佐郡は久留米侯、日向富高付支配は延岡藩、豊後直入郡支配は肥後侯が御預りとなる。郡代は4月以降、制勝組の大調練、大砲の実弾射撃訓練を伏木や山田原などでおこなった。また制勝組の食糧を確保するため玖珠郡の田野村 千町牟田 開墾を企てて、そのための調査に出かけたりした。
〈窪田郡代日田を去る〉
慶応3年12月王政復古の大号令が発せられ幕府の 終焉(しゅうえん)は明らかとなったにも 拘(かかわ)らず、郡代は地陣原に 篭城(ろうじょう)して抗戦の覚悟であったが、 広瀬青村 の説得で日田脱出を決意。翌4年1月 御許山(おもとさん) の勤王浪士たちが四日市出張陣屋を焼き払い、森藩士が自領の 城内(じょうない) 上手に出張という情勢の中で1月17日陣屋を去り大野村、菊池を経て肥後の奥方の家に身をひそめた上で江戸へ向かった。国家 支配人民のため支配所を引き払ったという申し渡しは 広瀬三右衛門 が預ってきた。
参考文献 『窪田治部右衛門の賦』
[首藤 助四郎]
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