熊本藩領 ( くまもとはんりょう)

瀬戸内への玄関口鶴崎

〈熊本藩領の成立〉
  加藤 清正(きよまさ) は天正16年(1588)に肥後半国を慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い 以降、小西 行長(ゆきなが)の 改易(かいえき)にともない肥後一国を領土とした。同6年清正は瀬戸内への拠点確保の意味から豊後国の鶴崎を望んだ。その結果、大分郡の鶴崎(大分市) 野津原(野津原町) 谷(挾間町 庄内町)、海部郡の大在 坂ノ市(大分市) 佐賀関(佐賀関町)、直入郡の久住 白丹(久住町)の3郡2万3,000余石が熊本藩領として与えられた。この豊後における熊本藩領は寛永9年(1632)に 加藤 忠広(ただひろ) が改易された後も新領主 細川氏 に幕末まで引き継がれた。
〈鶴崎御茶屋と鶴崎町の支配〉
 豊後における熊本藩領の中心は鶴崎であった。鶴崎の町割りは加藤時代の元和4年(1618)から行われている。加藤氏は 大友氏 家臣 吉岡氏 の居城であった 鶴崎城 跡( 鶴崎小学校 鶴崎高校 敷地)に 御茶屋 を設け、細川氏にも受け継がれた。御茶屋とは本来藩主の休憩所 宿泊所であって、佐賀関 野津原 久住にも置かれた。しかし鶴崎の御茶屋にはいろいろな役所が置かれ、熊本藩の豊後における支所的な役割を担っていた。鶴崎には 鶴崎番代 (熊本藩豊後領の総責任者)1名が置かれた。番代は1年交代であってその役宅は御茶屋の正門前にあった。番代には 根取(ねとり) (総務) 横目(よこめ)(監察) 物書(ものかき)(書記)といった役人が付けられた。また番代の下には農村支配 年貢等の担当責任者として郡代(郡奉行)2名が置かれた。郡代のいる役所が御茶屋の隣にあった郡会所である。ここには根取 物書 加人(かにん)物書 (書記補)がいた。3人の物書のうち1人は キリシタン類族 を担当する類族方、1人は必要物品の購入を担当する買物方の役人を兼務していたという。また、郡代には「鉄砲の者」とも呼ばれた 鶴崎 陸手(おかて) (鶴崎詰めの足軽)31名が付けられた。これらの役所以外にも造船 船の修理その他の土木事業を担当する作事所、熊本藩豊後領のすべての年貢米を保管する米蔵、出納を担当する銀所、金銀の両替や産物の出し入れを担当する預会所、 郡屋(こおりや)などがあった。郡屋は郡会所の向かい側にあり、 高田 手永(てなが) (大南 鶴崎地区の村と志村)と 関手永 (大在 坂ノ市地区の村)の出会所があった。ここでは郡代からの通達や各手永からの郡代への上申などを担当していた。交通運輸を担当する人馬 会所(かいしょ) や 水夫(かこ)会所もこの郡屋のなかにあった。熊本藩では「五か町」制といって熊本 八代 高瀬 川尻 高橋のみを町として認めていた。鶴崎町は公的な書類等には鶴崎村に含まれ、町としては公認のものではなかった。しかし実際は 出町 西町 新町 本町 堀川町 横町 今新町 山川町 三間町 国宗町 といった町筋をもち、町として機能していた。その立地環境から多くの人々が集まり、多くの物資が交易されていたのである。こうした鶴崎町は宝暦6年(1756)五か町に準ずる扱いを受ける「 准町(じゅんまち) 」として藩から公認されることとなった。文化10年(1813)の商人 職人の家数は確実なものだけで 153軒を数えることができ、職種も造酒屋 質屋 宿屋など多様であるうえに軒数も多くまさに城下町的な景観を呈している。鶴崎町は高田手永 惣庄屋 の管轄下にはなく、郡代に直属していた。そして4人の町年寄(のちには町 別当(べっとう)とも呼ばれた)が町会所に寄って合議制をとり町の行政が運営された。町年寄の下には町横目 帳書などが付けられた。町の周辺部の村では日雇い 他所への出稼ぎなどに出るものが多く町方のような風俗を呈していたという。
〈参勤交代と鶴崎港〉
 鶴崎は熊本藩にとって川尻とならぶ海の玄関口であり、有事発生の場合は防衛の任につき、平時は 参勤交代 の乗船や藩のための航海をする 船手(ふなて) が配備されていた。船方の役人としては船頭 首(がしら) 組脇(くみわき) 船頭 加子(かこ)(水夫)が置かれた。組脇は船頭首の補佐を行う者である。船頭は上級船員であり加子は下級船員である。船手を管轄した役所が船会所で、船頭首のもと事務を担当する物書 算用方 船手横目が勤務していた。この役所の下には船入り(ドック)が設置され藩主の 御座船 波奈之丸(なみなしまる) を入れる 御船堀 、御座船に随行する 鳳麟(ほうりん)丸 福寿丸 千歳丸 を 繋(つな)ぐ 三艘堀(さんそうぼり) 、 小早船(こはやぶね)が入る 千艘堀 (総堀とも言う)があった。また船入り構内には気象を調べるための 日和見台(ひよりみだい)が設置されていた。熊本藩の参勤交代のルートは鶴崎経由と大里(北九州市)経由の2つがあったが、交代でこの経路を利用していた。しかし大里経由の際も鶴崎から御座船が回航されたため、鶴崎には船とその乗務員が常に置かれていた。藩主の参勤交代には安永年間(1772〜81)に47 艘(そう)780人、文化年間(1804〜18)に67艘788人にものぼる多くの人々が随行したという。その雄姿は 剱(けん)八幡宮 の奉納された 絵馬 によってうかがいい知ることができる。
 参考文献 『大分市史』中巻
[一法師 英昭]

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