統制経済 ( とうせいけいざい)
民需を犠牲に軍需を優先
戦時などの緊急時に経済の混乱を防止したり、経済力を最大限に動員したりする目的で、物価 金融 賃金 労働力の配分、財の配分などを国家が統制した経済をさす。
〈日中戦争とともに強化された経済統制〉
昭和12年 日中戦争 が 勃発(ぼっぱつ)するとこれまで準備されつつあった統制への動きが一挙に早まった。この年の12月に「輸出入品等臨時措置法」、「臨時資金調整法」、「軍事工業動員法」(のち総動員法に吸収)の戦時統制3法が成立した。このうち「輸出入品等臨時措置法」は輸出入の制限禁止のみならず、諸商品の製造 配給 譲渡 使用 消費に対し統制措置を講ずる広範な権限を政府に与えるものであった。13年に成立した 国家総動員法 は労働統制 物資統制 貿易統制 金融統制など経済活動の全ゆる分野にわたり人的 物的資源のすべてを国防目的に総動員する権限を政府に委ね、12年に制定された輸出入品等臨時措置法や臨時資金調整法と相まって経済統制推進の原動力をなすものであった。総動員法に関係して布告された法令(勅令の形式をとった)をまとめると、@人的資源の統制及び利用に関するもの12、A物的資源同13、B資金の統制及び運用に関するもの4、C事業同11、D文化同2であった。民需(産業)を抑制し軍需(産業)に人的 物的資源を集中させるためにとられる措置が経済統制である。軍需物質として最も重要な鋼材は13年の鉄鋼配給統制規則の制定によって統制下におかれ、14年4月から釘 針金 鉄線は配給となった。「購入も1名あたり500匁以内と限定されたので建築の請負業者や大工さんは大弱り」(『大分新聞』)と報ぜられ、農村でも村の鍛治屋が統配合され農具修理も「七里モ八里モ持ッテ行ク」(『大分県会速記録』)不便を忍ばねばならず、また木造建築統制令によって市部30坪(99u)農漁村48坪(158.4u)を限度として許可なく建築することは禁止された。鉄鋼に似てその80%を海外に依存するガソリン 石油も13年から 配給切符制 となった。 バス 路線は1路線1営業主義で運転台数が減少し、14年には別大間のバスが全面休止、16年には遊覧バスも廃止となり更に普通乗用車のガソリン使用も全面禁止となった。農村でも電灯代りの灯油も配給が月5合となり(『大分県会速記録』)害虫駆除の油も入手不可能となった。漁村の場合も重油不足で動力船の活動が制約された。大分県は 木炭 の生産県であったが14年には木炭配給統制規則が定められ配給となった。16年の県の木炭生産目標は1,600万貫(6万t)、うち政府供出分721万300貫(2万7049t)で、これは銑鉄特殊鋼製造用、二硫化炭素用等工業用 木炭自動車並定置式ガス発生機用などにも使用されるものであった。食糧や生活必需関連商品も16年までには全て統制下におかれ配給となった。生活必需品の統制と並行して物価や賃金 家賃などにも統制が強化された。政府は13年に公定価格制度を設けて漸次全商品に広げて行くとともに、14年3月には賃金統制令を、10月には価格統制令などを発して、9月18日水準で物価 賃金 家賃などを凍結する9 18ストップ令を実施した。なお労働力不足を補うために 国民徴用令 が発せられたのもこの年である。この背景には膨大な軍事費の支出によるインフレの進行と物不足からくる物価騰貴を価格 賃金を凍結することによって抑制しようとするねらいがあった。生活必需品の配給システムは砂糖を例にとると、15年7月切符配給制となったが、県割当て110万斤(斤は600g)のうち家庭用は40万斤、1人月0.4斤(240g 後0.5斤)で、切符は市町村長 隣保班(りんぽはん) 長を経て世帯主に交付、購入は切符を発行した市町村内の販売業者の所属する小売業組合の地区内とした。町村の商工業者は配給統制の進展にともない失業する者が増加しはじめたが、18年に戦力増強企業整備要綱が制定されると壊滅的な打撃をうけ休廃業に追いこまれるものが続出し、 企業合同 が進んだ。これは不急の産業の大部の施設 設備を休廃止し、その設備資材 労働力を 軍需産業 に転用しようとするものであった。農村においても経済統制は深刻な影響を及ぼすようになった。14年には肥料が配給となり、15年には米穀管理規則の制定により米の供出制が確立して低米価が押しつけられるようになり、17年には食糧管理制度がしかれてその統制下におかれた。食糧不足が深刻化すると県当局は16年農地統制令細則を施行し、食糧農作物(米 麦 甘藷(かんしょ) 馬鈴薯(ばれいしょ) 大豆)用田畑の削減を禁じ、制限農作物(桑樹 茶樹 果樹 薄荷(はっか) 煙草(たばこ) 花卉)その他西瓜など瓜類及び 七島藺(しっとうい) の作付制限を実施し、年を追ってこれを強化した(『大分県報』)。県下農村の有力副業の 養蚕 業も桑園面積16年約7,700町歩が20年3,100町歩(『大分県統計書』)と半減してやっと余命を保った。
[三重野 勝人]
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