遣欧少年使節 ( けんおうしょうねんしせつ)
宗麟は遣欧を知らなかった?
天正10年(1582)から同18年までの8年間、 大友 宗麟(そうりん) 大村 純忠(すみただ) 有馬晴信(ありまはるのぶ) らの キリシタン大名 が、 伊東マンショ 千々石(ちぢわ)ミゲル 中浦ジュリアン 原マルチノ ら一族の少年たちをローマに派遣した。この使節を「遣欧少年使節」と呼んでいる。
〈派遣の計画〉
この使節の計画者は、天正7年7月、来日した イエズス会 日本巡察使アレッサンドロ ヴァリニャーノ である。かれは日本におけるイエズス会の布教のあり方が誤まっていることを指摘した。すなわち、キリスト教布教には現地順応主義が必要であることを主張するとともに、布教組織や教育機関の整備を図った。ヴァリニャーノは、日本国内の布教体制をたてなおす一方、遣欧使節を派遣し、ヨーロッパのすぐれた文物に触れさせ、日本人のヨーロッパ キリスト教世界観を一変させること、使節派遣を契機として、日本布教の財政的援助を増大させることをねらって、天正10年正月、離日の直前に遣欧使節の派遣を計画、実施した。ヴァリニャーノは大友宗麟 大村純忠 有馬晴信を選び、その一族、重臣らの子供を使節にしようとした。正使は宗麟の縁戚にあたる伊東マンショ、晴信 純忠の血縁の千々石ミゲル、副使は原マルチノ、中浦ジュリアン。使節は3侯の書簡などを携行する。驚くことに、宗麟は少年使節派遣を知らなかったらしい。「何のためにあの子供たちを送るのか」といったという(松田毅一「天正遣欧使節の真相−特に伊東満所に就いて−」『史学雑誌』74−10号)。渡辺澄夫は、大友宗麟のヤソ会総長あての書状を検討し、同書状が偽文書であることを証明した(「大友宗麟のヤソ会総長宛書状の真偽について」『大分県地方史』第62号)。ヴァリニャーノの計画期間が短かったため、連絡を欠いたのであろう。
〈使節行〉
天正10年正月28日(2月20日、カッコ内は西暦、以下同じ)、ヴァリニャーノは4少年使節を引率して長崎港を出帆、中国マカオを経てインドのゴアに到着した。一行にとって残念なことは、ヴァリニャーノがインド管区長に任命されたため、ローマへ同行できなくなったことであった。天正12年正月9日(2月20日)、ゴア総督マスカレニャスから提供された大船サンチャゴに乗船、司祭メスキータらの引率によってローマへ向かった。アフリカ南端を回り、同年7月5日(8月10日)、リスボン入港。マドリッドに国王フェリペ2世を訪れて、宗麟の書簡を奉呈した。翌13年正月30日(3月1日)、ローマに到着。3週間を経た2月22日(3月23日)、教皇グレゴリオ13世から公式謁見を許され、大友 大村 有馬3侯からの書簡が奉呈されている。1か月後、グレゴリオ13世が甍じた。使節一行はシスト5世の即位式に参列を許され、また、ローマ市民権を与えられるなどの厚遇を受けた。滞在3か月後の天正13年5月6日(6月3日)、シスト5世から大友 大村 有馬3侯あての書簡を携えてローマを離れた。その後、北イタリア諸都市を歴訪し、リスボンに到着。天正14年2月25日、リスボン出港。翌15年4月23日(5月29日)、ゴアに帰着した。ここで再び巡察使に任じられていたヴァリニャーノと感動的な再会を果たす。天正16年3月27日(4月23日)、一行はヴァリニャーノとともにゴア出港。マカオで 豊臣秀吉 の宣教師追放令を知るとともに、大友宗麟、大村純忠の死去を知る。ヴァリニャーノはインド副王使節としての資格で日本入国を許され、天正18年6月20日(7月21日)、長崎に帰着。実に8年5か月を要した長旅を終えた。
〈帰国後の使節〉
豊臣秀吉は 聚楽第(じゅらくだい)において一行を引見し、ヴァリニャーノはインド副王の書簡を奉呈、使節はローマで得た品々を贈呈した。その後、秀吉の前でヨーロッパから持ち帰ったヴィオラ、チェンバロなどの楽器を演奏したという。伊東マンショは豊臣秀吉からの任官をことわり、他の3人と天草の修練院でイエズス会に入った。のち、中浦ジュリアン 原マルチノとともに司祭に叙任され、布教に力を尽くしたが、慶長17年(1612)、長崎で生涯を終えた。生年43歳であった。中浦ジュリアンは禁教迫害の中で布教をつづけたため、捕えられて長崎で殉死。原マルチノも捕えられてマカオに流され、客死した。千々石ミゲルは棄教し、キリシタン迫害に加わったという(吉川弘文館『国史大辞典』9)。遣欧少年使節は、帰国後、禁教迫害の時代に遭遇したため、十分な布教活動を果たしたとはいえない。また、ヴァリニャーノの思惑通り、日本布教の経済的援助が得られたともいえない。しかし、16世紀後半、ヨーロッパにおいて日本人使節が大きく紹介されたこと、持ち帰った西洋式印刷機 印刷術が文化の進展に寄与したことなどが特筆されるであろう。
参考文献 渡辺澄夫『増訂豊後大友氏の研究』
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