県会 ( けんかい)
実現できなかった「地方自治」
〈大分県民会の開設〉
明治8年(1875)、当時 小倉県 管下にあった下毛 宇佐両郡に 民会 が出現した。両郡は民撰戸長制と区戸長会議をもっていたが、宇佐郡では同年6月、6則83条からなる「民会規則」を作り、また中津町には同年11月に「 中津公会 」が発足し、やがて下毛郡各小区に小区会が組織されて 下毛郡民会 が成立した。両郡民会は、区財政や学校費 戸長定員等を審議し、ことに両郡内学校に教師を供給するための 中津養成校 を共同で設立した。明治9年、両郡は福岡県ついで大分県に編入されたが、戸長民撰制や小学補助委託金の配分をめぐって大分 県庁 と対立し、ことに後者では両郡民会が闘争の主体をになった(いずれも県側の譲歩をかちとった)。こうした中で、 宇佐郡民会 は 県民会 の開設要求を提出した。時の大分県 権令(ごんれい) 香川真一 は、明治11年3月、「民会仮規則」を布告した。 福沢諭吉 が激賞したこの「仮規則」は、性別 財産等による資格制度なしで戸主に選挙権を与え、小区会−大区会−県民会という三会制の複選法によっていた。また発議権を議員だけでなく区戸長や衆庶にも認めるというもので、よく似た熊本県のそれ以上の開明性を具えていた。但し、民会議決の執行は県庁の判断によるとする等の規定もあって、宇佐郡民会は18か条の修正案を提出した。民会議員の選出は下毛 宇佐2郡以外については小区会段階についても経験がなく、難行したが、ともかく7月10日に開会式を挙げ、2週間の会議で仮規則を一部修正して「民会規則」を決定した。
〈初期県会の「地方自治」追求〉
明治11年7月、いわゆる 三新法 体制の一環として 府県会規則 が公布された。 自由民権論 の高まる情勢に対する政府の一定の譲歩であると共に、地方のいわゆる「豪富ノ農商」を体制内にとりこむ狙いがこめられていた。だから被選挙権は直接国税10円以上、選挙権は同5円以上の男子のみとされ、また議員提案権も行政調査権もなく、議権は 地方税 規則の範囲内での賦課徴集金額とその使途に限られ、しかも地方長官の 県会 中止権や内務 卿(きょう)指揮による議決拒否 原案執行権によって制約されていた。それでも明治22年までの初期県会期には、大分県会は県政の主導権を県会の側ににぎるべく、 県令 (明治13年、香川から 西村 亮吉(りょうきち) に替わる)と激しい衝突をくり返した。一つには当時の県会議員には、県官を圧倒する学識や識見の持ち主が多かったこと、一つには自由民権と、国会開設に向けての政党復興の動きが背景をなしていた。この期の県会と県令の衝突の代表的な事例として次の三つがあげられる。第一は、明治13年末臨時会における備荒儲蓄法の審議をめぐってであった。地租納入引当金の徴収を目ざす同法審議に 副四郎一(そいしろういち) 、 江島久米雄 らが反対の論陣を張り、県会は審議棚上げを決議、内務卿指揮による再会命令も県会はボイコットして抵抗した。第二は、16〜18年の通常県会で、巡査定員削減と帯剣反対を主張して警察費予算を否決、再議命令で再否決、内務卿指揮権による原案執行という抵抗を3年にわたってくり返した。第三は、明治22年の日田 玖珠郡大 水害 の復旧に関する国庫補助増額のための西村知事の上京を建議したのに対し、知事がこれを拒否したことから、大分県会史上に最初で唯一度の 知事不信任決議 (もちろん法的には無効)を行って議事録に特筆したことである。この時期の県会は、「 民力休養 」を旗じるしに、「官」に対する「民」の代表という立場をつらぬいていた。
〈県会の変質〉
明治23年、府県会議員選挙法が改正された。被選挙権は従来と変わらなかったが、選挙権は郡会議員と地価1万円以上の大 地主 による互選に改められた。県会議員に地方利益代表的性格をもたせて、その政党化を阻止する狙いであった。それが如実に現われたのは29〜30年県会での中学校設置問題であった。各地方利害の対立で四分五裂した論議の末に2本校2分校の原案は2本校4分校案となり、全国的に例の無い一県6中学校体制を生むことになった。しかし、県会の政党化は進行し、特に25年の県会での佐賀県道県債案をめぐって党派対立が深まった。明治26 27年の県会正副議長 参事会員選挙の投票数はすべて同じで、党派的結束を明確化した。 同志会派 対 豊州会派 という図式が成立したのである。
明治32年、県会議員選挙法が改正され、選挙権を直接国税3円以上納入者とし、複選法を廃して単記 無記名 直接投票となった。この年の選挙で初めて豊州会派が多数を占めた。以後しばらく改選ごとに勢力分野は交替する。しかしこの間に、政党化の他に二つの点で県会の変質が進んだ。一つは地主県会的性格が露骨になって来た。県税収中の地租割 戸数割比率が年々後者に大きくなり、その滞納増大に悩む県が明治25年以来提案する戸数割賦課等級制に対して県会は 執拗(しつよう)に抵抗し、県会きっての論客 政友会 の 生野満吉郎 の等級制賛成論は孤立しがちであった。他方、例えば42年通常会での 大分港 築港100万円県債案はほぼ満場一致で可決している。もはや県会は「民力休養」を追求する場ではなくなっていた。そしてもう一つの変質局面は県会審議の形式化であった。明治40年代には県会議員 委員は議長指名、三読会制はほとんど一審議のみ、採決はせずに議長の「異義ナイモノト認メマス」で決定、開会は会期の3分の1前後で、議事録はかつての半分の厚さにも満たない。
〈大正期の県会〉
明治末から大正期を通じては、従来の「 超然知事 」にかわる「 党色知事 」の時代である。地方政界の党派勢力の消長は「 わが党知事 」、したがって中央政局の動向に左右され、県会は知事与党対野党の対抗、実は中央の与党対野党の対抗の地方版の舞台とならざるをえない。地方の中央への従属が進み、しかも原内閣以来の地方利益配分による政界操縦いわゆる「高等戦術」が横行した。大正4年選挙で 憲政会 が多数となった大分県会に、同6年、中央にならって 新政会 が出現し、翌7年、少数与党の政友会が新政会と組んで県会を抜き打ち開会し、憲政会抜きで予算通過をはかつて失敗する等の波瀾はあった。しかしこの時期を除いては政友会優勢(11年の県議小選挙区制 直接国税納入者に選挙権という改正以後は絶対多数)で終始し、大戦景気を背景に年々大型化する予算と、それに伴う戸数割増税(全国2位の高額)と巨額の起債を波瀾もなく、ほぼ無修正で可決して行った。戦後恐慌期にも状況は変わらない。議員たちの関心はもっぱら道路の建設や県道認定、県費による架橋など、地元利益の獲得に集中するようになっていた。
〈1930年代の県会〉
第2次護憲運動 に際して分裂した政友会が再統一を果たし、憲政会が 政友本党 の一部と合して民政党が成立した昭和2年(1927)の県議選(小選挙区制廃止 初めての普通選挙制)でも政友会が勝った。昭和5年、県会議長 小野廉 が総選挙の 野依(のより)秀市 派選挙違反事件で拘引されたり、政友から民政へ移った 広瀬彦太郎 県議が県会内で刺殺される事件などがあり、翌6年選挙は浜口内閣成立を背景に久しぶりに 民政党 が勝った。政友会きっての論客だった 佐藤虎雄 が消え、 山口 馬城次(まきじ) ら多くの新人が登場した。この時期、 昭和恐慌 は深刻の度を加え、積極財政主義の政友議員が予算整理を求め、緊縮財政主義の民政議員が起債による公共事業を求める等、本部方針を逸脱する議論も行われた。しかし 満州事変 以降の軍国主義の気運と5 15事件による政党内閣の消滅という状況の中で、昭和7年以降、大分県では政党排撃的な 選挙粛正運動 が展開する。10年選挙で 平山茂八郎 ら議長経験組が退場し、前回と合わせて大半の顔ぶれが変った。新旧交替率は全国でとび抜けて高い。知事はもはや「党色」をもたない「 官僚知事 」である。県会内両党に危機感が生じ、選挙粛正運動と政党無用批判、山口馬城次の右翼批判、 蜷木(になぎ)稔 の ファシズム と官僚統制政治批判などがくり返された。しかし、官僚知事に対する県会の無力化は顕著で、新聞に県会議員の人物 飢饉(ききん)とか、小乗的意見のみと評される有様であった。昭和4年以降、予算案はすべて無修正原案可決である。昭和14年選挙では1市7郡が無投票となり、知事に「敬意ヲ表ス」と言われた。しかし県議の中にも無投票万歳と言う者や、独裁者ヒットラー万歳を主張する者も現われ、さらに14年には県会役員選出で 揉(も)め、裏折衝で3日間休憩が続くという醜態を演じたりした。かんじんの審議については、県会の大勢はひたすら協調県会が実態で新聞から「自戒か自壊か」と評される有様であった。
〈翼賛体制下の県会〉
昭和15年10月、 大政翼賛会 が発足した。大分県の体制つくりの中で、常務委員11名の中に4名、翼賛協力会議員30名中に11名の県議が任命された。山口馬城次、 柏原幸一 は庶務部長、組織部長になった。大政翼賛会大分県支部発足直前の同年11月の県会で、翼賛の実をあぐるため県会議員全員を以て大分県会議員倶楽部を結成していたが、論議の中では協力会議と県会の関係が問題とされた。県会最終日、正副議長を改選し山口馬城次が議長となり、批判県会から脱皮して翼賛県会たることを目ざすと挨拶した。18年の改選期は1年延期され、19年にさらに延期された。この間、戦争下県民の苦難を論議しなかったわけではないが、会期8〜4日で予算その他全議案を無修正で可決した。まさに翼賛県会だった。敗戦後初の県会は昭和20年11月に開かれたが、21年の 府県制 の改正により、22年4月通常県会を最後に、その70年の歴史に終止符を打った。
参考文献 『大分県政史 県政篇』 豊田寛三ほか『大分県の百年』
[野田 秋生]
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