建武新政 ( けんむのしんせい)

復活した天皇政治

〈北条政権の 終焉(しゅうえん)〉
 建武新政は、 後醍醐(ごだいご)天皇 の下に行われた天皇政治の復活と要約される。天皇政治の復活は、 後鳥羽(ごとば)上皇以来の公家側の理想であった。元亨元年(1321)、後醍醐天皇は院政を廃して天皇親政を実現し記録所を設置した。さらに倒幕計画を進めるが、事前に露見し失敗する。 正中(しょうちゅう)の変 元弘(げんこう)の乱 がそれである。正中の変 では、幕府に信用のある 万里小路宣房(までこうじのりふさ)を派遣して、天皇自身は関係がないとの誓書を 北条 高時(たかとき) に提出し弁明して事なきを得たが、元弘の乱では幕府方に捕えられ、元弘2年(1332)3月隠岐に 配流(はいる)されてしまう。翌3年正月には、 大塔宮尊良(おおどうのみやもりなが)親王 の 令旨(りょうじ)を得た 阿蘇大宮司 一族や播磨の赤松 則祐(のりすけ)らが 蜂起(ほうき)し、2月末には天皇も伯耆に脱出する。一方幕府は、 足利 高氏(たかうじ) 名越高家(なごえたかいえ)を西上させるが、高氏は執権高時を見限って勅命を受け、4月29日篠村八幡宮の社頭で反幕府の態度を明らかにした。5月、 六波羅探題(ろくはらたんだい)が落ち、幕府も 新田義貞(にったよしさだ) の攻撃で滅亡する。なお、 鎮西(ちんぜい)探題 府の滅亡は幕府滅亡3日後の5月25日のことである。
〈後醍醐天皇と大友 貞宗(さだむね)〉
 鎮西探題攻略をめぐり、菊池氏との盟約を破って後世批判を受ける大友貞宗は、正慶2年(元弘3)3月20日鎮西探題館に忍び入り、後醍醐天皇の 院宣(いんぜん)を貞宗に渡そうとした使者 八幡宗安(やはたむねやす) を捕え、23日 頚(くび)を 刎(は)ねた。院宣は大友 少弐(しょうに) 菊池 平戸 日田 三窪各氏あてであった。このように、天皇と貞宗との最初のかかわり合いは、貞宗の一方的拒否により不成立に終わった。後日、足利高氏が後醍醐天皇に応じたため、貞宗は高氏に進んで味方する旨を申し出たらしい。4月29日付けで貞宗入道 具簡(ぐかん) にあてた高氏書状に、高氏自身が伯耆国にあった天皇の勅命を 蒙(こうむ)り参陣したところ、進んで同心する旨申し出のあったことを知り、大変喜んでいると、あることからも明らかである。5月25日、具簡は 島津 少弐氏らと共に探題府を襲い滅亡させた。
〈復活した天皇政治〉
 正慶2年5月23日、天皇は伯耆国を出発、6月4日帰洛した。途中の5月25日には 光厳(こうごん)天皇を廃し、年号も正慶を 停止(ちょうじ)して元弘に復した。また、鎮西探題滅亡も報告され、6月10日にはその旨を天皇に報告した旨の書状が高氏から具簡らに届けられた。続く13日には鎮西の降参人 捕虜等の処分が具簡に命じられた。一方、各地の武士たちは「 定法(じょうほう)」に任せ、「 身暇(みのいとま)」を給わって参洛し、恩賞に預ろうとして、続々と上洛した。その最大の原因は、天皇方として軍忠をあげた武士の本領であっても、新政府の承認を必要とするという方針が示されたためである。したがって、京都は各地から上洛した武士で一杯となった。この事態に驚いた政府は、7月26日「士卒民庶いまだ 安堵(あんど)せずして上洛し、いたずらに農業を妨ぐることを停めしめ、北条高時以下朝敵党与を除くほか、当時知行の領地は従来どおり領有せし」める 官宣旨(かんせんじ)を 大宰府 に下し、武士の上洛を禁じたのである。しかし、 所領(しょりょう)の安堵は、「奏聞を経られ、安堵の 綸旨(りんじ)を成し下され、将来の亀鏡」に備えたいという申請に対し、「 当知行地(とうちぎょうち)、一円 宣旨(せんじ)に任せ、 管領(かんれい)相違あるべからず」という綸旨を必要としたのである。また、恩賞を要求する武士たちに対応するため、8月には恩賞方が設置されたものの、事務は遅々として進まず、しかも没収した北条氏の所領のほとんどは天皇以下皇室関係者あるいは戦勝を祈願した社寺に配分され、武士たちには全く恩賞は与えられなかった。このような中で、大友具簡には筑前国博多息浜が与えられている。この行賞の不当性については、「 神皇正統記(じんのうしょうとうき) 」でも指摘されるほどのものであった。
〈建武政権の破たん〉
 古代に理想を求める新政権は、記録所 雑訴決断所(ざっそけつだんしょ) 武者所(むしゃどころ)等を設置して体制を整えるが、その内容は時代の流れに逆行するもので武士階級に大きな不満を与えることになる。当時の世相は、建武元年8月の二条河原の落書に「此比都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨、召人早馬虚騒動、生頚 還俗(げんぞく)自由出家…」とあるような騒然たる状況であった。この新政権の行きづまりが 北条 時行(ときゆき) らの「 中先代(なかせんだい)の乱 」を誘発する。時行は 足利 直義(ただよし) を破って鎌倉を手中に収めるが、東下した尊氏に敗れ逃走する。以後、尊氏は天皇の再三にわたる帰京命令を無視して、公然と反意をあらわすのである。つまり、建武政権に対する武士の不満の爆発である。時行追討のため参陣を命じられていた 大友 貞載(さだのり) らが、尊氏に味方するようになるのも新政権に対する反発であることは間違いない。この尊氏の反により、建武政権は崩壊する。建武政権下の二豊では、宇佐 大楽寺(だいらくじ) が 勅願寺(ちょくがんじ) となったこと、 規矩高政(きくたかまさ) 絲田貞義(いとださだよし) 等の乱平定に出陣したことなどがあげられる。なお、新政は当時公家一統の政治と呼ばれていた。
[橋本 操六]

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