大分県立病院 ( おおいたけんりつびょういん)

県民医療の基幹総合病院として貢献

 今日「病院」と呼ばれるものは、天明7年(1787)森島中良が著した『 紅毛(オランダ)雑話』の中でオランダ語Zieken Huisを病院と訳したのが始まり、といわれている。現在、病院とは(定義)「西洋医学が施設や設備、治療あるいは診療に応用され、病人の収容とその診察 治療をおこなう施設である」(日本史小百科『医学』)。したがって古く弘治2年(1557)、ポルトガル人のルイス デ アルメイダ が、われわれの郷土に開いた「 府内病院 」こそ病院の 濫觴(らんちょう)といってよかろう。
 降って時代は近代日本の夜明け、明治に入る。明治維新を迎えた太政官政府は、世界に門戸を解放し、広く先進諸国の西欧文化を吸収するとともに鋭意近代国家の建設を目指す。このため、永年我が国の医療に預かっていた漢方医術は、その主役の地位を「 西洋医学 」に譲る。同10年(1877)前後、医薬 衛生の諸制度も 漸(ようや)く緒につき、その年6月の政府調査では、全国の病院数は106、このうち官立7、公立64、私立35で、その他貧民病院および梅毒病院を併せれば総数159に及んでいた。大分県でも廃藩置県(同4年、1871)を経て宇佐 下毛の2郡が県域に編入された(同9年)後、県(立)病院兼医学校の歴史が始まることになった。
〈大分県病院と医学校の創設〉
 大分県では同13年3月1日、県衛生課の設置につづき公立病院として 大分県病院 と付設の医学校を創立した。初代院長(兼校長)は秋田県花岡町出身の 鳥潟恒吉(とりがたつねきち) (1855−1914)、当初の病床(ベッド)数はおよそ30。この県病院は、同22年廃止されるまで総数2万8,160人、年平均2,816人の患者を治療し、併せて医学校も、同21年廃校までに75人の卒業生を世に送り出している(『大分県統計書』)。なお、県下の医師数は、同20年以降650人から700人で推移する。その主流は「従来開業医」、すなわち伝統の漢方医術の流れを汲む者で医学校卒の資格を持たずに医師免許を与えられた人たちで、同20年には624人(県下の医師総数730人)、同30年387人(同694人)と漸次減少傾向を見せ、逆に近代医学を修めた「医学士」医師が着実に増加し、それに伴って医療水準も徐々に向上していった。
〈無償治療が原因で一時廃院〉
 既述のように、大分県病院は、明治22年に廃院となった。その理由は、病院経営の悪化による県財政への圧迫による。「国民皆保険」の現代と違い、貧困家庭に対する無償の治療が原因であったと指摘される。当時の院則―「県内ノ貧困者ニシテ重病ニ罹リ、入院若シクハ薬価ヲ 償靡(しょうび)能ハザル者ハ親類連署ノ上(中略)其ノ情状ニヨリ無償ニテ治療ヲ施シ、又ハ入院ヲ許可スルコトアルベシ」―にも、その辺の事情がうかがえよう。今一つの理由は、当時の交通事情による。当時、病院利用の恩恵が大分町(当時)とその周縁部の地域住民に限定されており、多額の県費支出は県民均等の受益という地方税の目的に合致しない、とする。下毛 宇佐 西国東の3郡連合医会を中心とした廃止運動により、ついに「廃院決定」となった。その後は、初代院長鳥潟が当施設を借り受け、私立「 大分病院 」として承継。だが明治20年代、全国的に発生の赤痢 コレラの大流行に加え、衛生思想の普及や日清戦争勝利による大国意識の高揚などから再建運動が起き、同31年末の通常 県会 で「県立病院復活案」が可決され、翌32年7月より診療を再開した。この時要した工費約14万円、敷地面積7,098坪、総建坪1,797坪。診療科目は内科 外科 婦人科 耳鼻 咽喉(いんこう)科の4科。その後、大正期に遂年施設を拡充し、同8年度の入院患者数は4万3,849人、外来患者は4万6,620人。なお、同院に産婆と看護婦の養成所が併置されたのは明治36年と39年であった。修業期間はともに1年、大正8年までに産婆(助産婦)396人、看護婦143人を主に県内に送り出している(大正10年刊『大分県案内』)。
〈戦後〉
 現在の県立病院の施設は戦後、昭和28〜32年の県病整備5か年計画による。病床数も、同23年の249床から同44年(1969)には610床へ。同年、ガンセンターを併置、名実ともに「県民医療の基幹総合病院」としての地位と役割を発揮する。なお、同52年国立 大分医科大学 の開校に際しては、関連教育病院として必要な人的 物的整備も図ってきた。現在(平成2年)、病床数610床(一般531、結核54、伝染病25)、診療科目は18科部、職員定数555人。昭和63年度の入院患者数は20万290人、外来患者数は21万4,810人。県下有数の基幹総合病院として、一般医療のほか公的病院でなければ対応困難な高度医療 特殊医療 先駆的医療を担当し、さらにガン治療 精神治療 小児治療 リハビリテーション等にも取り組んでいる。現在地は、敷地が 狭隘(きょうあい)となったため、平成元年度より3か年計画で移転、同4年(1992)春に完成の予定。移転先は大分市大字 豊饒(ぶにょう)485番地、敷地面積4万7,330u、鉄骨鉄筋コンクリート造り(地上10階 地下1階)、総事業費は約195億円。診療開始は平成4年夏の予定。
 参考文献 大分県医師会『大分県医師会史』
[大野 保治]

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