源平合戦 ( げんぺいかっせん)

源氏についた緒方一族

 治承4年(1180)から約10年間、源平両氏が戦った 治承(じしょう) 寿永(じゅえい)の内乱(源平合戦)で、終始、 緒方 惟栄(これよし) 一族がとった平氏敵対行動。
〈養和の内乱〉
 治承4年、 以仁王(もちひとおう)の 令旨(りょうじ)を 戴(たい)した源 頼政(よりまさ)以来、 頼朝(よりとも) 義仲(よしなか)と反平氏の挙兵が続く。寿永2年(1183)、義仲が 砺波(となみ)山に平氏を破ると、平 宗盛(むねもり)は 安徳(あんとく)天皇を奉じて西下、同年8月、 大宰府 に入った。治承5年2月(7月、養和改元)、惟栄は肥後 菊池 隆直(たかなお) とともに、平氏に謀反を起こした。平氏と連携した 宇佐宮 と在地領主への圧迫に対する反発が挙兵の理由と考えられる。加えて、のちに親源氏派となった豊後国 知行国主(ちぎょうこくしゅ) 藤原 頼輔(よりすけ) がその子 頼経(よりつね) を通じて、平氏追討の 院宣(いんぜん)を与えたという(『 平家物語 』)。惟栄に加担したのは 大野 家基(いえもと) 高田 隆澄(たかずみ) ら 大神(おおが)一族 、隆直には 木原盛実(きばるもりざね) 南郷 惟安(これやす) らが同意した(『 吾妻鏡(あずまかがみ) 』)。このほか、惟栄には 稙田有綱(わさだゆうかい) 日田 永秀(ながひで) も従ったという。豊後武士団は、大宰府の平氏を攻撃するため、惟栄が南道肥後から、日田永秀が中道日田郡から、臼杵惟隆 稙田有綱が北道豊前から進撃を開始した。惟栄軍は肥後菊池氏の、惟隆軍は豊前 板井(いたい)氏 の抵抗を排除して大宰府に迫る(「日田郡司職次第」)。菊池隆直が惟栄の攻撃を受けたのは、去就不明によると考える。迎撃するのは 原田 種直(たねなお) である。兵2,000をもって合戦した(『吾妻鏡』)。惟栄軍は苦戦したが撃破する。この猛攻によって平氏は大宰府を脱出、一旦、 山鹿(やまが)城 (山鹿秀遠居城、筑前遠賀郡)へ逃れたが、豊後武士団の急追によって豊前 柳ケ浦(やなぎがうら) に渡り、 内裏(だいり)をたてる。柳ケ浦の所在について、宇佐説と北九州説がある。
〈源平に分かれた大神氏〉
 平氏は九州に留まること1か月、平 知盛(とももり)の知行国長門へ渡ったが安住できず、さらに讃岐国 八嶋(やしま)(香川県屋島)に向かう。屋島において態勢挽回を図る平氏は、摂津国須磨(神戸市須磨)に渡り、 一ノ谷 に 拠(よ)って守備を固めた。このときの平氏軍の中に 佐伯 惟康(これやす) の名がみえる。また、さきの平氏西下に当たって、安徳天皇を守護した 部槻(べっき)(戸次)氏 もまた、当然、平氏方である。この部槻氏は佐伯惟康の兄 惟澄(これずみ) と推定され、惟栄とは 従兄弟(いとこ)の関係にある。大神一族の佐伯氏が平氏方に 与同(よどう)した理由は、大分郡 賀来(かく)荘 が平 清盛(きよもり)の妻 時子(ときこ)の兄 時信(ときのぶ) の 所領(しょりょう)であり、惟澄 惟康兄弟の父佐伯惟家は、治承3年には、当荘の 下司職(げすしき)を帯している関係からであろう(「 柞原(ゆすはら)八幡宮文書 」)。平氏が一ノ谷に拠った寿永3年1月ころ、惟栄 惟隆(臼杵)らは備前国 邑久(おおく)郡 今木(いまき)城 (岡山県邑久郡邑久町)に拠って平氏反抗戦を行ったが、平 教経(のりつね)によって撃退された。惟栄の瀬戸内海中部に進出した理由は、伊予国 河野通信(こうのみちのぶ) と連携して、瀬戸内海の制海権を握ろうとしたのではないかといわれている。同年2月、平氏は源義経と一ノ谷に戦い、その奇襲によって敗れ、通盛 忠度 敦盛らの諸将を失って屋島に走った。
〈 壇(だん)ノ浦合戦 と惟栄の兵船献上〉
 平宗盛は屋島を守り、知盛は彦島(山口県下関市)にあって 門司関(もじぜき)を固めた。 源頼朝は弟 範頼(のりより) と平家追討使として西海に派遣、範頼は、11月、周防国(山口県)に到着した。猛烈な食料不足と圧戦気分に襲われた範頼軍に、頼朝は豊後国の兵船を用いるように作戦指導を行う。元暦2年(1185)正月、軍内でも源氏に味方をしようとする惟栄 惟隆から兵船を出させて豊後に渡り、博多に攻め入るという作戦がたてられていた。惟栄は範頼の命に応じて兵船82 艘(そう)を、周防国 宇佐那木遠隆(うさなぎとおたか) や豊前国宇佐郡 深見(ふかみ)荘 ( 安心院(あじむ)町) 秋吉 盛広(もりひろ) も兵糧米を献上して来た。このとき、惟栄の源氏与同が明確となる。惟栄が兵船を献上したのは、豊後 国衙(こくが) 舟所を支配する地位にあったと考えられる。この支援によって範頼は豊後に渡り、惟栄による 宇佐宮焼き打ち 事件で焼亡した宇佐宮に詣でたのち、筑前国芦屋浦で原田種直らと戦い、これを破った。 火男火売(ほのおほのめ)社 (別府市)の 別当(べっとう)である 鶴見俊春 も惟栄についてこの戦いに加わり、戦功を遂げている(『姓氏家系大辞典』)。2月、 後白河院(ごしらかわいん) 庁は兵船を献上した豊後国住人に対する勲功 勧賞(けんしょう)の 下文(くだしぶみ)を発し、今後も平氏討滅に尽力することを伝えた(『吾妻鏡』)。豊後国住人とは、明らかに惟栄である。この下文は源頼朝の上申によるから、惟栄の兵船献上は大きな功績であったことを知ることができる。頼朝は屋島攻撃に義経を起用、その奇襲によって屋島は陥落した。平氏は再び瀬戸内海を西下して長門壇ノ浦に向かう。3月24日午の刻、平氏は壇ノ浦海戦で大敗し、源平合戦は終わる。この海戦を契機として、源義経と惟栄との関係がはじまったと推定される。養和の内乱で惟栄と同意した大野家基の子泰基も義経に同心したとあり、一族の中には惟栄とともに義経に与同した者もあったらしい。
 参考文献 渡辺澄夫『源平の雄緒方三郎惟栄』
[芦刈 政治]

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