国家神道 ( こっかしんとう)
神道国教化と信仰の自由
明治維新期から太平洋戦争終結に至るまで国家宗教的地位にあり、イデオロギー的基礎となった宗教。神社神道を再編成して皇室神道と結びつけた 祭祀(さいし)中心の宗教を指していう。昭和20年(1945)12月のいわゆる「国家神道廃止令」では、「日本政府ノ法令ニ依ッテ、宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派、即チ国家神道 乃至(ないし)神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派」と定義されている。神社局が内務省におかれていたのに対し、宗教局は文部省におかれており、行政ルートの上からも国家神道と 教派神道 やその他の宗教は区別されていた。ただ国家神道という言葉自体は、「神道」「 惟神(かんながら)の道」「国体」などと呼ばれていたものが、戦後の占領下にState Sintoの訳語として一般化したものである。
〈国家神道の確立〉
慶応4年(1868)の祭政一致の方針と 神祇(じんぎ)官復興の宣布、明治3年(1871)の 大教宣布(だいきょうせんぷ)、同5年の教部省設置等々、明治政府はその発足当初から神道国教化への布石を矢つぎばやに打ち出していた。しかし、不平等条約の解消という重い課題を背負って、信仰の自由容認のポーズと神道国教化の本音の調整に腐心しなければならなかった。神社神道非宗教の体裁を整えつつ、 大日本帝国憲法 は「安寧秩序ヲ妨ゲズ」「臣民タルノ義務ニ背カザル限リ」という条件をつけて「信仰ノ自由」を規定した。明治前期、 神仏分離 と並行して、官幣社 国幣社 府県社 郷社 村社 無格社という神社の格付けが行われていたが、 日清 日露戦争 を経て神社信仰は強化された。明治39年の国庫供進金制度の発足に引き続き、府県 郡 町村も 神饌幣帛(しんせんへいはく)料を供進して行く。宗教局が内務省から文部省に移され、神社局とも完全に分離された大正2年(1913)には官国幣社以下神社神職奉務規則が、翌3年には官国幣社以下神社祭祀令 同祭式が公布された。すでに、 教育勅語 戊辰詔書 の拝読も定着しつつあり、国家神道はこのころ確立したということができよう。
〈国家神道の教義〉
国家神道の思想的前提としては、復古神道の天皇崇拝や水戸学の国体観念等があげられるが、その教義は天皇の万世一系 現人神(あらひとがみ)論、日本神国論、忠孝一致説などを柱としていた。国民への浸透にあたっては、神社参拝や教育の果たした役割が大きい。大分県下の上位社格神社数の変遷は、下表のとおりであった。神社供進金を得、国家神道鼓吹の中心拠点でもあった。官幣大社 宇佐神宮 、国幣中社 西寒多(ささむた)神社 と11の県社での出発であったが、大正5年 柞原(ゆすはら)八幡社 が国幣小社に昇格し、大正中期以降県社の増加がめざましい。明治40年120円で出発した県支出の 神社供進費 も、大正末以来急激な増加を続け、昭和14年には1万6千円余、18年には2万4千円余に達した。しかし、多くの神社は民衆によって維持されており、土俗的な祭祀内容も引きずっており、神社神道がすべて国家神道の中に包含し尽くされていたわけではない。
〈あいつぐ神社の創建と造営〉
大正12年国民精神作興に関する詔が出されたが、教化団(大分県では昭和2年(1927)結成)の活動などを通じて、「国民精神」「皇国精神」作興運動が展開される。満州事変以後は 国体明徴運動 となり、国家神道の教説にも一層の増幅がはかられた。大分県下においても、昇格県社が増加し、供進金も飛躍的に拡大された。 広瀬神社 の創建(昭和10年)、宇佐神宮昭和の御造営(同16年)、 護国神社 の造営(同18年)等々、あいつぐ協賛金方式による神社の巨大工事が敢行された。「 八絋一宇(はっこういちう)」「祭政一致」などのスローガンが唱えられ、歴史や修身の授業は国家神道の教義に近似して行った。
〈国家神道廃止指令〉
昭和20年8月、わが国はボツダム宣言を受諾して終戦を迎えるが、12月占領軍によって国家神道廃止指令が出され、修身 日本歴史 地理の授業も停止された。21年1月1日の天皇の人間宣言によって、国家神道は制度上消滅した。ボツダム宣言にも「宗教及思想の自由の尊重」がうたわれていたが、22年5月施行の 日本国憲法 の中にも重要事項として規定された。神社神道も国家の保護を離れ、他の宗教と同じ地平に立つこととなる。
[末広 利人]
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