古稲荷古墳 ( こいなりこふん)
古墳の萌芽
西暦3世紀は古代史の中で「謎の世紀」だといわれる。2世紀の中ごろから終わりごろにかけて倭国(日本)では、長期にわたって国々の戦いが続き、混迷状態にあったことを中国の史書は記している。この混乱を打開し、国々の統合に向けて諸国から共立されたのが 邪馬台国(やまたいこく) の女王 卑弥呼(ひみこ) であり、邪馬台国は、いわば倭国連合の盟主となったのである。卑弥呼は中国の魏王朝と密接な外交関係を結ぶことによって連合の盟主としての位置を保ってゆくが、3世紀の中ごろには世を去ったようである。卑弥呼の死後、その宗女 台与(とよ)が卑弥呼の路線を継承する。卑弥呼とその後継者台与が邪馬台国の王であった時代、すなわち弥生時代の終わりごろは、前方後円墳の成立と展開に象徴される古墳時代の胎動期であり、この時期の遺跡や遺物のあり方には、古墳時代に直接つながる要素や、来るべき時代の予兆とみられる点が少なくないが、邪馬台国の所在、邪馬台国とそれに後続して前方後円墳を成立 展開させた初期 ヤマト政権 とのかかわりなど、いまだ多くの謎を秘めている。「謎の世紀」といわれる所以である。3世紀代になると、それまで数10基、数100基と群集する墓地の中で墓地の位置や墓域の広さ、副葬品の内容等で優位を保っていた首長たちの中に、特定の領域を独占するかなり大規模な墳丘墓に単独で葬られるものが西日本各地に出現してくる。山陰地方を中心とした四隅突出形墳丘墓と呼ばれるもの、岡山県地方の方形台状墓などがそれである。こうした墳墓は、初期ヤマト政権の内部で定型化されて出現した巨大な前方後円墳に代表される「畿内型古墳」の先駆的な位置にあるものとして「発生期古墳」と呼称されている。発生期古墳の大分県における実例と考えられるのが古稲荷古墳である。古稲荷古墳は、宇佐市大字 法鏡寺(ほうきょうじ)字上原の 駅館(やっかん)川 右岸の段丘上にある。
〈古稲荷古墳の姿〉
昭和47年(1972)、この古墳の調査にあたった大分県教育委員会 宇佐市教育委員会は、まず古墳の形が四角形( 方墳(ほうふん) )であることに注目した。それまで、県内では、多数の円墳や30基を下らない数の 前方後円墳 は知られていたが、方墳の発見は初めてのことだったのである。調査が進むにしたがって、この古墳の性格が次第に明らかになり、この地方における古墳の発生を考える上で古稲荷古墳が重要な位置にあることがわかってきた。古稲荷古墳は1辺約20m、高さ約2mの方形墳で、墳丘の北側には幅4mほどの 周濠(しゅうごう) があり、丘陵との境を区画している。墳丘の表面に小形で扁平な割石を用いた 葺石(ふきいし)が認められる。墳丘中心部、墳頂から2m下った位置に地山を掘り込んで箱形の 石棺(せっかん) を裾えている。石棺は 内法(うちのり)長1.8m、幅0.5mで、各7枚の長方形の板石を立てて側壁を造る。 遺骸(いがい)の頭部にあたる方の石棺小口には1枚の板石を使っているが、足の方の側は木板を使用したとみられる。蓋石は3枚の厚手の板石で構成する。副葬品は全く発見されていない。周濠の中から、転落した葺石に混って、もともと墳丘上に供献されていたと考えられる 壷(つぼ) や 高杯(たかつき) などの土器片を数点検出している。これらの土器片の示す特徴は、弥生時代の終末期ごろの土器と共通するようであり、古墳の時期判定の 拠(よ)り所の一つとなっている。
1辺20mの規模のわりに墳丘の高さが低いこと、特定個人墓としての形を整えているにもかかわらず副葬品をもたないこと、葺石に河原石を使用せず扁平な割石を使っていることなど古墳として未発達な内容を示す古稲荷古墳は、他地方の発生期古墳の一部と共通する要素をもっている。こうした要素に加えて、周濠内で検出した土器から得られる時期判定の所見をあわせ、古稲荷古墳はこの地方における古墳の 萌芽(ほうが)を示す発生期の古墳だと考えられるに至ったのである。
〈前方後円墳への道〉
古稲荷古墳の位置する駅館川中流域の台地上には、弥生時代後期の 銅鉾(どうほこ)埋納遺跡 や 鏡片 を伴う同時期の 住居遺跡 などが集中し、この時期、この地域に有力な集団が存在したことは明白である。しかも古稲荷古墳の対岸の段丘上に、弥生時代後期以降、 宇佐平野 の拠点集落の一つとなったと想定される 別府(びゅう)遺跡 が形成されることは示唆的である。古稲荷古墳を造営した母胎勢力の支配領域がさして広範囲だったとは思えないが、このような勢力の統合が「宇佐」を代表する国造的勢力へと発展し、 川部 高森古墳群 にみる前方後円墳の形成に 継(つなが)ってゆくことは想像に難くない。確かに古稲荷古墳の出現は、宇佐地方に古墳時代の開幕を予兆する重要な事象には違いないが、 赤塚前方後円墳 の出現という日本的な規模で把えるべき変革とのギャップは、現在われわれが考える以上に大きかったのではなかろうか。
[甲斐 忠彦]
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