弘安の役 ( こうあんのえき)
神風の実体は?
弘安4年(1181) 蒙古(もうこ) 軍再度の来寇を撃退した戦争。 文永(ぶんえい)の役 と併せ、日本史上の最大の国難の一つ。
〈元使再三の来朝〉
文永の役で敗退した蒙古は、その翌建治元年(1275) 杜世忠(とせいちゅう)らに国書を持たせて使者として派遣し、4月15日 長門(ながと)国室津についた。 鎮西(ちんぜい)奉行 少弐経資(しょうにすけつね) は、使者の希望通りこれを鎌倉に送った。幕府はこれを龍口で 斬(き)った。日本からの返答のない元 高麗は、再度出撃の準備を整えた。弘安2年元は南宋を滅ぼし、いよいよ軍備を整える一方、南宋の降将 范文虎(はんぶんこ)に命じ日本に使節を派遣させた。同年6月25日第2回の使者 周福(しゅうふく) 欒忠(らんちゅう)らは博多に到着したが、鎮西奉行は独断でこれを斬った。杜世忠らの斬られた事を知り、元は征日本行省を作り、再度の日本出兵にふみ切った。
〈戦闘経過〉
元軍は 忻都(きんと) 洪茶丘(こうさきゅう)の率いる蒙漢軍と、高麗の 金方慶(きんぽうけい)の率いる高麗軍を合わして東路軍といい、弘安4年5月3日 合浦(がっぽ)(慶尚南道)を出航した。蒙古人 阿剌罕(あらかん)と南宋降将范文虎の率いる漢軍を江南軍といい、艦船3,500 艘(そう)、兵10万人といわれ、江南の慶元(寧波)を出発した。両軍は壱岐で合体する予定であったが、東路軍は対馬を侵し、江南軍を待たず壱岐を経て6月6日、わが 志賀島(しかのしま)を攻め占領した。彼は 鋤(すき) 鍬(くわ) 生活用具を用意し、屯田支配の計画であった。わが軍は陸の海ノ中道と、博多湾 能古島(のこのしま)を拠点とした海上からの両面から攻撃した。 香椎(かしい)前浜を警固する 大友 頼泰(よりやす) 軍は最も敵正面に近く、海ノ中道から攻撃、嫡子蔵人( 親時(ちかとき) か)は手兵30余騎で奮戦した(『 八幡愚童記(はちまんぐどうき) 』)。玖珠郡 右田道円(みぎたどうえん) の代官子息 能明(よしあき) が軍忠を立てたのもこの戦いであろう。肥後国守護代 安達盛宗(あだちもりむね) 竹崎季長(たけざきすえなが) らは守備地 生松原(いきのまつばら)から、海上に出て戦い、 草野経永(くさのつねなが) (筑後) 河野通有(こうのみちあり) ( 伊予(いよ))らは賊船を襲い、敵船に斬り込み殊功を立てた。大友軍の猛反撃で志賀島から内陸に進攻することが出来ず、他の海岸でも 防塁(ぼうるい)で阻止され、無数の艦船が狭い博多湾でひしめき合い、一部は長門に向かったが大した戦いもせず退いた。6月13日ころ志賀島で敗れた東路軍は、壱岐に退き江南軍の来着を待った。江南軍の先遣隊は6月14 15日ころ対馬に着き、下旬に壱岐に着き、遅延の理由(阿剌罕の急病による交替)と集結地の平戸変更を告げた。江南軍本隊は7月初旬平戸から五島沿岸着、1か月後れで両軍が合体、7月下旬東進し博多に向かった。途中九州の御家人が小舟で襲撃し、元軍はこれを撃退しつつ主力は肥前 鷹島(たかしま)(長崎県鷹島村)に着いた。ところが同月30日風が吹き出し、夜に暴風雨となり、閏7月1日終日大型台風が吹き荒れ元軍の大船団は覆没した。死体は潮にしたがって浦に入り、浦は 塞(ふさ)がったという。
〈二豊御家人 社寺の活躍〉
戦後弘安4年12月2日、守護大友頼泰は、玖珠郡 古後通重(こごみちしげ) 帆足道員(ほあしみちかず) 両人に対し、去る6月8日の戦闘で同郡右田道円代子息能明の 軍忠状(ぐんちゅうじょう)の証人として、報告書の提出を求めた。8日の戦いとは志賀島のそれで、右田能明自身と下人(身分の低い従者)が負傷しており、その証人とされた古後通重 帆足通員も、同時合戦をしたことは疑いない。弘安7年 小田重成(おたしげなり) 帆足資直(ほあしすけなお) の軍功の証人に 野上資直 が、野上資直の証人に 森朝通(もりともみち) が、 守護 大友頼泰から 出府(しゅっぷ)を命じられているのも、この戦いであろう(「 野上文書 」)。 都甲惟親(とごうこれちか) は閏7月7日鷹島の対岸星鹿(肥前町星賀)に馳せつけ、鷹島に渡り東浜で戦い子 惟遠(これとお) が敵の首を取り、郎従三郎二郎( 旗差(はたさし)) 下人弥六末守が負傷した。この検知者 志手筑後房円範(しでちくごぼうえんはん) は速見郡 山香郷 の御家人で、都甲氏らと同陣に戦った人である(「 都甲文書 」)。 宇佐八幡宮 以下の社寺は 敵国降伏(てっこくごうぶく)の祈願に精誠を尽くしたが、弘安7年になっても国東 六郷満山 供僧は幕府から祈祷を命じられている。
〈戦後処理〉
戦後最大の問題は恩賞で、大友頼泰は御家人提出の軍忠状に対する証人調べや、証判(証明の判)付与に忙殺されている。恩賞や所領問題で争いが起こり、鎌倉に参訴する者があり、番役が滞る結果となった。幕府は鎌倉出訴を禁止し、弘安7年特殊合議訴訟機関を博多に設けて処理させ、これが同9年 鎮西 談議所(だんぎしょ) となり、永仁元年(1293)北条一門をもって任ずる 鎮西 探題(たんだい) の設置に発展した。談議所は少弐 大友(頼泰) 宇都宮 渋谷 の4名が任ぜられていた。恩賞は弘安9年が第1回、以後正応元年(1288) 2 3 5年 嘉元3年(1305) 徳治2年(1307)と7回実施が確認されている。社寺に対する奉謝も必要で、宇佐宮に対する 神領興行(しんりょうこうぎょう)法 の発令等もこれと関係する。しかも 警固番役 や 石塁(せきるい)の修理等が半永久的に続く。御家人の窮乏、永仁の 徳政令 等幕府滅亡の契機となる社会問題が続出する。
参考文献 相田二郎『蒙古襲来の研究』 網野善彦『蒙古襲来』(小学館『日本の歴史』10)
[渡辺 澄夫]
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