公害 ( こうがい)
粉塵公害から風成まで
公害とは公害対策基本法によれば「事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下および悪臭によって、人の健康または生活環境に係る被害が生ずること」と定めている。
〈近代産業の発達とともに発生した公害〉
公害が社会問題として世の注目を集めるようになったのは明治23年(1890)以来の足尾銅山鉱毒事件をはじめとするが、県内においても近代産業の 勃興(ぼっこう)によって発生するようになり、場合によっては深刻な 騒擾(そうじょう)事件にまで発展することもあった。大正期に 津久見 に 粉塵(ふんじん)公害 が発生しはじめた。この背景には大正6年の 桜セメント の進出や翌年の 大分セメント の操業があったが、煙突から吐きだされる白い粉塵が市街に注ぎ更に海風に乗って青江の高台を直撃し、 みかん に積って枯死させるという事件が相次ぐようになった。これに対して津久見では交渉委員を選んで交渉し15年に会社が防塵装置を設置して一応の決着を見た。しかしその後も十分には問題は解決せず、昭和9年に 太平セメント が徳浦に進出すると再び悪化し、この時も新式の集塵装置を設置することで事を収めたが、根本的な解決は戦後にもちこされた。これとは別に県内の鉱山周辺では 鉱害 がしばしば発生した。 佐賀関鉱山 の銅製錬場では明治27〜28年煙害を起こし周辺に被害を及ぼしたが、30年代製錬所再開にあたっては 古宮区長 を中心に反対運動が展開され、33年福岡鉱山監督署より不許可の命令が下り製錬所は閉鎖された。大正3年 久原(くはら)鉱業株式会社 (現 日本鉱業株式会社 )がこの地に製錬所設置を計画したことから反対運動が激化し、4年4月23日には400人の群集が 早吸日女(はやすいひめ)神社 の境内に集まり前町長 町会議員宅など30余戸を襲撃し293人が検挙されるという事件にまで発展した。製錬所の煙突は高さ167.6mで 北見山 頂近くにそびえるが先端は標高294mにもなり、事件和解後の5年12月、煙害防止を目的として建てられたものである。
〈高度経済成長と公害の拡散〉
昭和35年池田内閣のうちだした所得倍増政策によって本格的な 高度成長 時代が訪れると公害も拡散して深刻の度を加えた。イタイイタイ病 水俣病 四日市ぜんそく 新潟水俣病のいわゆる四大公害裁判が提訴されたのは42年から44年にかけてであったが、この前後県内においても 佐伯湾 における魚の大量変死(40年)、黒い油で大在の海苔100万枚全滅(41年)、43年には 奥岳川 の カドミウム汚染 や大分市小中島川での 有機水銀 検出と公害にかかわる事件が相ついで発生した。時あたかも39年に大分鶴崎地区が 新産業都市 に指定され、44年には 石油化学コンビナート が操業を開始するなどして公害に関する関心は急速な高まりを見せた。大分県では40年4月に企画部企画第一課に職員3人の公害係を設け公害行政をスタートさせたが、以後これは公害室 公害課を経て公害局(46年)に昇格し、44年には大分県公害防止条例も施行され47年には「経済との調和条項」も削除された。43年の 昭和電工グループ との協定以来 公害防止協定 の締結 改定が諸企業との間で進められ、47年に県下初の 無過失賠償責任 規定を含む協定が 小野田セメント との間で結ばれた。津久見の粉塵公害は戦後も引き続き、35年には市内みかん園総面積の76%にあたる48haが降塵被害をうけた。被害は以後も絶えず44年には市に公害対策審議会が、また46年には市公害課が発足、 公害追放市民会議 も同年旗揚げした。降下粉塵は45年の測定開始時には地点によっては月に1 当たり91tを記録したが、企業の高性能集塵装置の採用などの努力もあり、10tを指導基準 20tを危険領域とする目標は達成された(『津久見市誌』)。
〈臼杵風成裁判と開発行政〉
県下の公害問題で全国的に最も注目を集め行政にも影響を与えたのが 風成(かざなし)闘争 であった。44年臼杵市がすすめた 大阪セメント の工場を風成の対岸大泊を埋立て、誘致する計画に反対する闘争で、 突(つき)ん 棒(ぼう)漁 の留守を守る主婦の厳寒の海上での3日間の闘いが有名であるが、これは法廷に持ちこまれ漁民側の全面勝訴で終わった。この裁判では、公共性の薄い一般私企業が埋立免許を受ける場合の条件につき厳しい解釈を下し、企業進出―地域経済の発達―住民生活の向上という開発事業や行政の論理に警鐘を鳴らした点で画期的であった。48年大分県は環境保全の立場から 周防灘(すおうなだ)総合開発計画 の棚上げを発表。ついで 新産都2期計画 のうち 8号地 の分離中断を発表した。民間や市町村にあってもこの年 興国人絹パルプ株式会社 が原油基地の建設計画を撤回し、また真玉町が 丸善石油 誘致の中断を決定した。前年が オイルショック で高度成長の夢が破られたことが原因ではあるが以後公害も下火になる。
[三重野 勝人]
[こ]メニューに戻る