鉱山開発 ( こうざんかいはつ)
豊富な鉱物資源
〈金 銀 銅〉
江戸時代初め寛永15年(1638)刊の『毛吹草』には豊後 豊前の鉱物資源として、塩硝 水精 錫(すず) 鉛 燧石(ひうちいし) 硫黄 ながあげられている。また、19世紀初めの『豊後国志』には錫 鉛 硫黄 石灰 など15種類が記されている。これらの鉱山については、開発に関する史料が少なく、不明な点が多い。ここでは代表的な鉱物資源と鉱山を取り上げることにする。まず、貴金属の代表である金。豊後の金山といえば、 日出(ひじ)藩 鶴成(つるなり)金山 と 立石領 馬上(ばじょう)金山 (山香町)である。鶴成金山は「伊東文書」と「山香郷図跡考」によれば寛永6年(1629)砂金が発見されたことに始まる。同年10月藩は金山惣奉行をおき、大々的な開発に乗り出した。その結果、最盛期には人夫 商人など7000人が集まり、長さ2町(約200m)の町筋4つと100間(180m)の横町2筋の金山町が形成されたと言う。人夫には近隣農民のほか他国からもやってきていた。 七島莚(しっとうむしろ) を日出藩に伝えたのは薩摩 日向出身の鉱夫だったと言われている。非常な繁栄を見た鶴成金山であったが2年後には早くも閉山となった。その後享保3年(1718)に鶴崎の山師により再開発が試みられたものの失敗している。しかし、文化7年(1810)の 帆足 万里(ばんり) 著『 窮理通 』には「水金を出す、今に至り金を採ること止まず」とあり、わずかながら採鉱は続けられていたようだ。鶴成金山と並称される馬上金山について江戸時代の詳細ははっきりしない。天保7年(1836)立石下村庄屋富部氏が提出した書類によれば、まず元禄年間(1688〜1703)鶴崎の 仲間善右衛門 が金脈を掘りあて、20日間ばかり採鉱したものの枯渇した。続いて享保年間(1716〜35)に 万屋庄吉 が試み、12日間続けて1日に10貫入りカマス12包づつ採鉱できたが、掘り尽くし中止。その後、宝暦3年(1753)宇佐郡中須賀の織屋が北側の山で採鉱に成功したものの、坑道内のガスが多いため失敗した。このように試掘には成功するものの軌道に乗らなかったのは金脈が深く、ガスが強かったためという。馬上金山が隆盛をみるのは近代に入ってからである。金と並ぶ銀についてはどうであろうか。江戸時代に銀山として名をはせた山はほとんどないが、鶴成金山では立石領との境にあたる 倉成板山 で藩主導のもと、銀の採掘が試みられた。約40m掘ったところで、「銀箔の付候能クサリ」が多量に採れたが、吹き立てても銀とは成らなかった。そこで 岡藩 から技術者を招き調査したところ、銀山としては成功しないと指摘され、中止されたという。また、その岡藩の 尾平(おびら)鉱山 はそもそも当初は銀山として開発された山であった。
〈尾平 木浦鉱山〉
岡藩領の尾平鉱山(緒方町)と 木浦(きうら)鉱山 (宇目町)は錫 鉛の山として有名であった。尾平鉱山は戦国時代末天文16年(1547)銀山が開発されたのが始まりとされる。『中川史料集』には寛永元年(1624)9月「尾平山より鉛初めて出る」とあり、江戸初期から藩営によって開発が進められている。その後、錫 銅 白目などを産出している。木浦鉱山は慶長年間に開発され、『中川史料集』同12年(1607)8月条には「木浦山にて鉛山出来、初めて御献上あり」と幕府に鉛5,000斤を献上している。両鉱山の鉛採掘は順調だったようで、寛永元年(1624) 同2年にも3,000斤 1,000斤を献上している。両鉱山は江戸時代を通じ採掘が続けられるが、産出量が継続的にわからず、変遷の様子ははっきりしない。ただ、『 豊後国志 』には両鉱山の錫と鉛について「今産すこと僅少」とあり、19世紀初めにはあまり振るわなかったようである。両鉱山の人口をみると、元禄12年(1699)が568人と最も多く、18世紀初頭から減少傾向にある。19世紀に入ると、尾平鉱山の場合山師数が30人前後で一定し、人口も幕末の文久年間(1861〜64)には310〜20人となっており、安定的な経営が続いていたようである。
〈その他の資源〉
豊後には九重山系の火山帯が東西にのび、硫黄が古くから採集されていた。このうち速見郡 伽藍(がらん)岳 (別府市 湯布院町)と玖珠郡 星生山(ほっしょうざん) (九重町)から良質の硫黄が産出されている。また、海部郡の 胡麻柄(ごまから)山 一帯は 石灰岩 の産地で、現在津久見市の基幹産業となっているが、起源は寛政3年(1791) 臼杵城下 畳屋町 の 吉田屋八十治 が 小園村 で石灰焼きを始めたことに求められる。その後 臼杵藩 では積極的に経営に乗り出し、 志手 徳浦 警固屋 清小原 各村に石灰小屋が建てられた。今では使われなくなっためずらしいものでは燧石がある。『毛吹草』には朽網(直入 久住町)の名産としてあげられ、『豊後国志』には立石領六太郎(山香町)産があがっている。速見郡では 燧石(ひうちいし)を角石とよび六太郎村産の上質品は明治初年に米1升ほどで取り引きされ、畿内では「小倉燧に六太郎角」と珍重されたという。
[長田 弘通]
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