国学 ( こくがく)

尊皇攘夷運動に走る塾生

 江戸時代末期、二豊諸藩でも国学が 勃興(ぼっこう)し、 藩校 の教授科目に国学を取り入れる藩が多くなった。国学派の民間や藩士の中には倒幕運動に挺身する者も現れ、明治維新実現に影響を与えた。
〈藩校における国学〉
  中津藩 では、文化11年(1814)、 渡辺 重名(しげな) に国学取立方を命じ、 進脩館(しんしゅうかん) において毎月3回講釈させた。この講釈は、一時中止されたが、明治維新前に復活、 渡辺 重春(しげはる) に教授させている。同藩では 和学校 ( 皇学校 )も設置された。 岡藩 では、 修道館 の教則に 皇学 を置き、学業 才能ともに高い者を独看生とし、50音の読み方からはじめて「古事記伝」や「古道訓蒙頌」を習得させた。この科目の設置後、間もなく閉校となったので成果を見るに至らなかった。 府内藩 では、特に国学の科目は置かれなかったが、 遊焉(ゆうえん)館 に孔子像とともに 日本武尊(やまとたけるのみこと)の画像を床壁に掲げている。最上級の6級生には国書 漢籍を自由に学習させた。 杵築藩 では、明治初年に皇学科を設置して、 物集高世(もずめたかよ) を国学教授に任じた。古事記 六国史(りっこくし) 日本外史 逸史通語 令義解(りょうのぎげ) 延喜式(えんぎしき) 職原抄(しょくげんしょう) 和名抄(わみょうしょう) 説教話柄などが学習内容とされた。 臼杵藩 では、藩校教則に国学はないが、学制頒布前に国学師2名が置かれている。儒官の 武藤 吉紀(よしのり) らが国学を教授したと考えられる。このほか、 佐伯藩 、 日出(ひじ)藩 にも、国学が藩校科目に取り入れられている(『日本教育史資料』)。各藩とも維新前後に国学を取り入れたのは、時代の要請に基づいてのことであろう。
〈二豊の国学者〉
 最も早く活躍したのが、大分郡松岡(大分市)の 増穂残口(ますぼざんこう) である。残口ははじめ 龍原寺(りゅうげんじ) (臼杵市)に入ったが、上洛して国学を修めた。神道に転じて旧事記 古事記 日本書紀を研究、京都 江戸 大坂で神道 和書の講釈を行い、神代を熟覧して道を知ること、儒仏の教えから日本魂に回帰することを説いた。享保2年(1717)に刊行した「 有象無像小社探(うぞうむぞうしょうしゃさがし) 」は、残口の思想を通俗的に記した著作である。臼杵の 鶴峰戊申(つるみねぼしん) は藩儒武藤吉紀に国学を学んだ。のち上洛して 安倍 晴親(はるちか) に就き、つづいて、国学社 小山田 与清(ともきよ) に入門した。その著書「 主各辨(しゅきゃくわきまえ) 」で、敬神の道に服すれば自ら孝弟忠信の道が行われると主張した(『臼杵史談』第17号)。安政3年(1856)、戊申の国学を基礎とする徴古究理の学理が水戸学派の容れるところとなり、水戸藩士となった。直接、二豊への影響を与えた国学者は渡辺 物集両氏である。吹出浜(中津市) 古表(こひょう)社 祀官(しかん)家に生まれた渡辺重名は、天明2年(1782)、 荒木田 久老(ひさおゆ) 、同7年、 本居宣長(もとおりのりなが) のもとに入門して国学を修し、宣長の唱道した「古学の道」を本領とする学風を展開した。進脩館国学教授に任じられて国書の講釈を勤めた。
重名の学統はその子 重蔭(しげかげ)、孫重春、 重石丸(いかりまる)に継承された。渡辺重春は祖父重名の門人 定村直孝(さだむらなおたか)に就いて国学を学び、嘉永のころ平田 銕胤(てついん)の門人となった。帰藩後、明治2年(1869)、皇学校師範、のち教授に任じられて子弟の教育に当たった。 渡辺重石丸 は兄重春と同様、藩儒 手島 物斎(ぶっさい) 野本 白巌(はくがん) に漢学を学ぶ。安政4年、桜町(中津市)において近隣の子弟に国学を教え、元治元年(1864)、私塾を 道生(どうせい)館 と命名した。慶応3年(1867)、平田 篤胤(あつたね)の思想に触れ、後嗣銕胤に書を送り、入門を請って容れられた。
入門後は神典、皇道の研究に精励、敬神尊皇の思想を鼓吹した。このため、同門から大分郡乙津(大分市)の 後藤 碩田(せきでん) ら尊皇 攘夷(じょうい)運動家を出した。明治2年、重石丸が京都皇学所の講官に任じられて道生館が閉鎖されたので、塾生 増田宋太郎 らは藩に迫り皇学校を開設させた。明治10年、 西南戦争 に当たって、増田宋太郎、 本好千座 らが薩摩軍に投じたため、重石丸は官職に就くことを止め、
東京に道生館を設立して著述と教育に専念した(『大分県地方史』第48号)。渡辺門とともに、二豊地方に影響を及ぼしたのは物集門である。杵築城下の物集高世は藩儒 元田 竹渓(ちっけい) に漢学を、豊前 企救(きく)郡 定村 直好(なおよし) に神典、歌道を学んだ。平田篤胤の学風を慕って入門。慶応4年、 宇佐学館 に招へいされて皇典を教授したが、藩命によって国学教授となった。その尊皇思想は 草莽(そうもう)層 に大きな影響を与え、門下の 元田 南豊(なんぽう) らは、明治維新前後、国事に奔走した。中でも、 佐田 秀(ひずる) は佐伯の 青木 猛比古(たけひこ) らと 楠公会 を組織して尊皇運動に走ったが、慶応4年、 御許山(おもとさん)事件 を起こして 斬殺(ざんさつ)された。高世の子 高見(たかみ)は、慶応2年、国学者 玉松操(たままつみさお)の門に入り、勤皇の大義について 研鑚(けんさん)を積み、
平田銕胤に国学を学んだ。のち、東京大学、学習院教授に任じられて国学の進展に貢献した。これらの国学者のほかに、 賀茂真淵(かものまぶち)門の加藤(橘) 千蔭(ちかげ)と交友のあった直入郡 志土知(しとち)村(竹田市)の 清原 雄風(おかぜ) 、江戸和学講談所に勤務した宇佐郡 敷田(しきた)村(宇佐市)の 敷田年治 、平田篤胤門の玖珠郡 松木(まつぎ)村(九重町) 高橋 清臣(きよおみ) 、直入郡竹田村(竹田市)の 田近陽一郎(たぢかよういちろう) らが活躍している。
 参考文献 大分県教育会編『大分県人物志』
[芦刈 政治]

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