国司 ( こくし)

必ずしも二豊に赴任したとは限らない

 律令時代の地方官。大化改新後全国を 国(くに) 評(こおり)( 郡(ぐん)) 里(り)にわけ、それぞれ 国宰(くにのみこともち) 評督(こおりのかみ)( 評造(こおりのみやっこ)) 里長(りちょう) を配置、その後徐々に整備され大宝令の制定で完成、従来の国宰に代わって国司が定着する。国司は一国の民政 裁判を掌り、国の政庁である 国衙(こくが) に一定の任期で勤務し、郡司と違って中央から派遣される。 守(かみ) 介(すけ) 掾(じょう) 目(さかん)の 四等官(しとうかん)からなり、時には守のみをさすこともある。しかし、この四等官が全部そろうのは 大国(たいこく) 上国(じょうこく)であり、 中国(ちゅうこく)には介が、 下国(げこく)には介 掾が置かれない。豊前 豊後両国は『 延喜式(えんぎしき) 』によると、平安時代には上国であったが、少なくとも奈良時代前半は中国で、守1人、掾1人、目1人、 史生(ししょう)3人の、介のいない構成であったと思われる。
〈国司の赴任〉
  豊後守 小治田朝臣諸人(おはりだのあそんもろひと) の例をみると、彼は天平10年(738)8月10日付けで 豊後国守 に任命され、10月14日 周防国(すおうのくに)を通過している(「周防国 正税帳(しょうぜいちょう)」)。『延喜式』によると周防国− 豊後国 間の下りの行程は6日であるので、諸人は10月20日前後に豊後国に着任したと思われる。発令から70日を経過しており、日数がかかり過ぎるようである。しかし 遠国(えんごく)である豊後国に着任するまでには、任国に至る行程を除いて40日の準備期間が認められており、京−豊後間の行程16日(『延喜式』)を加えた56日で着任しなければならず、2週間遅れということになる。ただ、延喜式の行程は、平安時代の税の運搬日数であり、国司の日程とは異なるであろうし、上りの行程でみると71日となり、諸人の行程と合う。奈良時代前期の豊後国では律令制度が守られていたとみてよいであろう。しかし、平安時代には、準備期間を60日に延ばし、特に官長には120日を上積みしており、任命から着任までに長期間を要すようになる。
〈国司の任務と任期〉
 新任国司は着任するとその国の印と 正倉(しょうそう)の 鑰(かぎ)を 受領(ずりょう)する。国印はその国の行政命令を発する権限を守がもっていることを示すシンボルであり、正倉の鑰は一国の財政を管理する権限の象徴である。大分市花園の 大国主神社(おおくにぬしじんじゃ) は別名「 印鑰(いんにゃく)神社 」「印鑰さま」と呼ばれるが、これは国印や正倉の鑰を保管した所が後に 社化(やしろか)したものであろう。国司は公民をもれなく把握し、税を徴収し、口分田の班給を行い、国内を視察して公民の生活が安定しているかどうかを見定め、農耕を盛んにするよう督励する。その間にそうした政務を中央政府に報告し、国内の財政を管理し、軍団の兵を監督し、神社仏閣を管理する。犯罪があれば 笞(ち) 杖(じょう)の罰を決する。要するに、国司は国家のほとんど全ての権限を掌握する民政官であり、軍政官であり、裁判官である。二豊の国司の任務を全てみることは不可能であるが、天平10年の「 豊後国正税帳 」によりその任務をみることができる。豊後守 楊胡(やこの)(陽侯) 史真身(ふひとまみ) は重要な正税について統轄をしているが、例えば 直入郡 だけでも、彼は、正税 出挙(すいこ)のため、貧病人や高齢者救済のため、あるいは 大宰府 の役人と一緒に巡行するなど、年7回延べ日数にして17日を費やしている。豊後国は8郡あるので、この国司巡行だけでも相当の日数を要すことになる。また、宝亀年間(770〜780) 豊前国守 であった 和気清麻呂(わけのきよまろ) は、 宇佐宮 の宮司や 禰宜(ねぎ)がしばしば神託にことよせて 妖言(ようげん)し風紀を乱したとして宇佐宮の改革を行ったといわれている。このように国司の任務は最高権力者として一国を統轄するが、二豊の場合はその上に大宰府があり、その強い統制下にある。税も報告書も全て大宰府に提出する。当然中央政府との行き違いが生じる。これが平安時代になり二豊の国司と大宰府との対立を生み、天長5年(828) 豊前守 伴枝嗣(とものえだつぐ) のように直接国司の入京を求めるようになる。
 国司の任期は大宝令で6年と決められていた。後4年と改められるが、宝亀11年(780)大宰府と管内国司は1年延ばされ5年となった。しかし、二豊の場合をみると必ずしも規定どおりではない。例えば、天平宝字7年(763)4月に任命された豊後守 笠朝臣不破麻呂(かさのあそんふわまろ) はわずか5か月で遷任して 采女朝臣浄庭(うねめのあそんきよにわ) に代わっている。
〈国司の収入〉
 国司としての収入は五位に相当する大国 上国の守には 位田(いでん)が与えられるが、その他 職分田(しきぶんでん)や 事力(じりき)( 雑役(ざつえき)や職分田の耕作をする農民)を給せられるほか、国司が富を蓄える要因となった空閑地の開墾とその運営の特権がある。また後に認められたものに国の正倉に収められ蓄える 官稲(かんとう)(正税 大税)の中から欠損未納の 補填(ほてん)にあてる 公廨稲(くげ(がい)とう)の残額が国司のものになる。その他 雑徭(ぞうよう)などの権限は私腹をこやす手だてとして行使されたであろうし、地方の最高権力者としてその気になればいくらでも財産を増やすことができたであろう。例えば、豊後守楊胡史真身は東大寺に銭1,000貫と牛1頭を寄進しているが、同じころ、天平勝宝元年(749)5月5日真身の子供である 令珍(れいちん) 令珪(れいけい) 玲 (れいりょう) 人麻呂(ひとまろ)の4人がそれぞれ銭1,000貫を東大寺に寄進し、外従五位下を叙されている。楊胡一族の貢献した銭は5,000貫に及ぶが、これは父親である真身が子供たちの名義で寄進したのであろう。彼はどのようにしてこのような富を蓄積したのか。養老6年(722)2月律令選定の功で 功田(こうでん)4町を賜っているが、これだけでは5,000貫に及ぶ寄進は無理であり、やはり天平10年の豊後守、同13年の 但馬(たじま)守の歴任を見逃してはならない。真身が豊後守であった時の「豊後国正税帳」によると、国司が各郡毎に 出挙(すいこ) (春に 籾(もみ)を貸し付け秋にその利を取る)を施しているが、これは国司の 私出挙(しすいこ) であり、その利稲は全て国司のものになる。分かっているだけでも 球珠(くす)郡4,500束、直入郡4,000束、某郡7,500束、3郡合わせて1万6,000束である。豊後国は8郡あるので、その総計は莫大になり、その利稲の多さが知れる。彼は豊後国在任中に、最高権力者として種々の権限を駆使し 莫大(ばくだい)な富を蓄積、それが天平勝宝元年の銭貢献となったと思われる。
〈国司制度の変遷〉
 奈良時代前期の二豊の国司は、介の存在が問題になる。豊前国では、天平宝字6年(762) 員外介(いんがいのすけ)、宝亀9年(778)兼任の介が現われ、宝亀11年、延暦4年(785)になって介が赴任する。豊後国は、天平9年(737)、同10年には介が存在せず、神護景雲元年(767)、宝亀元年、同2年、同3年と短期間に京官(中央官)と外官(地方官)を兼任する介、すなわち赴任しない介が現れ、延暦元年(782)、同9年になって赴任するようになる。豊前 豊後両国に介が赴任する、すなわち上国になるのは奈良時代後半である。
 平安時代のごく初期に二豊に共通するのは、守が赴任しない事である。豊前国では、弘仁3年(812)、同4年、承和5(838)、6、7、8年、豊後国では、大同3年(808)、弘仁2年の守が赴任しない。しかしこの時の介は赴任しており、実務は介がとったと思われる。例えば、大同年間豊後守であった 文室真人正嗣(ふんやのまひとまさつぐ) は中央の官職を兼任しており、赴任したとは考えられない。しかしその時の介谷忌寸野主は赴任しており、位階は従五位下である。豊後国(上国)の介は従六位上であるので介としては位階が高い。これは守が赴任しなかったので守の任務を代行するという意味があったと思われる。逆に弘仁4年豊後介 安倍雄能麻呂(あべのおのまろ) や粟田飽田麻呂は赴任してないが、その時の守笠梁麻呂は赴任しており、この時期の二豊では守か介のどちらかが任国の統治を行っていた。
 律令体制が動揺を始めると中央政府は地方統治の核である国司の統制強化策をとるようになる。しかし、延暦年間(782〜806)豊後守 藤原園人(ふじわらのそのひと) は政府方針とは逆に公民秩序の回復を推進する現実策をとった。 政府の国司統制強化は 勘解由使(かげゆし)制度 となって表れるが、かえって前任国司すなわち富豪浪人の活動を活発にし、前豊後介 中井王(なかいのおう) の問題が発生する。このため承和9年(842) 大宰大弐(だざいのだいに) 藤原 衛(まもる) が前任国司の帰京を訴えるようになる。弘仁年間(810〜824)には国司の権限が拡大され、宇佐宮に対する国司の介入は9世紀に浸透していった。そして承和年間(834〜848)には国司の任国支配はさらに強まる。しかし、このことは大宰府との対立を生み、天長5年(828)豊前守伴枝嗣の訴えとなり、さらに嘉祥2年(849)の 奏請(そうせい)となる。その後貞観年間(859〜877)には大宰府との関係も修復され、元慶年間(877〜884)豊後守 藤原 智泉(よしふち) の守に権力を集中する行政改革となる。
 平安時代も後半に入ると、豊後国では 大介(おおすけ) と称する国守が現われる。大介の初見は長元9年(1036)の大介 紀朝臣(きのあそん) で、以後平安時代は保延5年(1139)までみえる。大介の称は中央には見られず地方の呼称で、色々な見方があるが守の別称だと思われる。時代は下がるが、寛喜2年(1230)大介 惟宗朝臣(これむねあそん) は 在庁官人(ざいちょうかんじん)に発した文書に 知行国主(ちぎょうこくしゅ)の 袖判(そではん)を 戴(いただ)いているように、大介という用語にはその上にさらにもう一つの権威があることを示している。しかし豊前国には大介が見当たらない。
 その後豊後国では国司が赴任しない 遥任(ようにん) の風がおこる。康治2年(1143) 源朝臣 季兼(すけかね) 以下、 紀 宗廣(むねひろ) 、 高階朝臣清泰たか,しな,あ,そん,きよ,やす と守が赴任しなくなると現地に 留守所 が発生する。 由原(ゆすはら)宮宮師 は国衙に「国裁」(国司の裁許)を求めていたが、久安元年(1145)からは「留守所裁」(留守所の裁許)に変わる。留守所の長は 目代(もくだい)であり、同2年由原宮宮師の申請に答えた目代内蔵充中原が権力を握っていた。
 平安末期豊後国は知行国になり、仁安元年(1166)から元暦元年(1184)まで 藤原 頼輔(よりすけ) が知行国主で、その子 頼経(よりつね) 宗長(むねなが) が派遣された。その後鎌倉時代になり 源 頼朝(よりとも) が知行国主となる。豊前国の知行国制は文治2年(1186) 藤原 親雅(ちかまさ) が知行国主となってからである。
[若杉 昌昭]

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