国勢調査 ( こくせいちょうさ)
人口調査の近代化
大正9年(1920)10月1日以来5年ごとに行われている人口調査。全国一斉、同一日時の全数調査であることから、信頼度は高い。各種の統計中、最も基礎的で大規模な調査である。
〈善政の基礎〉
わが国の国勢調査の起源は、欧米の近代人口センサスにある。アメリカが1790年から、イギリス フランスなどが1801年から始めていたが、国際統計協会による世紀センサス(1900年)の呼びかけを機に、わが国でも国勢調査法制化の動きが始まった。しかし、国勢調査に関する法律の制定 公布は、明治35年(1902)となった。3年後に予定していた第1回調査は、日露戦争のために延期となり、財政難等を理由にその後も遷延されて来たが、第一次世界大戦後の大正9年にようやく実施の運びとなった。大戦期を通じて、わが国の経済と社会が大きく変化した事実が背景にあった。臨時国勢調査局から出された『国勢調査員必携』には、「国勢調査というのは、国家社会の実状を調べ、其の国における社会組織の内容と国民社会の実情とを 審(つまびらか)にし、善政の基礎を作るのが目的で、それが 為(ため)、先ず全国一斉に一人一人に就いて実地の調査を行うのであります」「世界の五大国の一として列国と肩を並べて行くには、予め国勢の基本になるものを正確に調べ、その正確なる統計に依って、あらゆる国家の施設を行わなければなりません」と述べている。
〈本調査と簡易調査〉
10月1日としたのは、1年の4分の3を経過していることのほか、決算期 年賀中元期 旅行遊山期 農繁期を避け、人口分布が比較的常態にあるとの判断によるものである。第1回調査での調査事項は、@氏名、A世帯における地位、B男女の別、C出生の年月日、D配偶の関係、E職業および職業上の地位、F出生地、G民籍または国籍の8項目であった。5年後の大正14年は簡易調査で、@氏名、A性別、B生年月日、C配偶関係の4項のみであった。昭和5年の第3回調査は本調査で、第1回の8項にさらに所属産業や失業 従業場所 住居室数などを加え、戦前の調査では最も詳細なものとなった。このあと第二次世界大戦前後は、第5回(15年)が本調査であるにもかかわらず簡易なものとなり、14年と22年に臨時国勢調査が行われるなどしたが、25年以降は本調査と簡易調査を規則的にくり返されている。
〈大分県の人口−大正9年以前〉
『大分県統計表』や『大分県統計書』によれば、県人口は、明治4年56万3,613で出発して以来、9年宇佐下毛の2郡を加えて70万を越え、日清戦争前後に80万、日露戦争前後に90万に達した。しかし、大正9年の第1回国勢調査の結果は86万282で、前年推計の「現住人口」より7万余の減少となった。これまでの統計が、甲斐国現在人別調(明治12年実施)以来の地域内現住居者主義(本籍者+有所帯寄留者)をとっていたことによるものである。なお県人口の対全国比は、明治前期約2%であったが、大正9年には1.54%に下落している。
〈国勢調査にみる県人口の推移〉
大分県の総人口は、大正9年以降国勢調査のたびごとに増加を続けたが、昭和10年の98万458をピークに戦時体制下は微減した。戦後は、海外からの 引揚げ 復員 と疎開、全国各地からの帰郷、ベビーブームで急増し、25年には一挙に125万に達する。人口増は30年(127万7,199)まで続き、その後はふたたび減少期にはいるが、50年以降はゆるやかな上昇を続けている。昭和60年国勢調査の結果は125万214(対全国比1.0%)であった。総じて県人口は、工業発展の時期、高度経済成長期に減少し、不況期 安定成長期に増加している。都市部の人口吸引力に対する安全弁的な役割を負わされて来たということができる。
〈人口構成〉
県人口の性比は、女100に対して男は大正9年96.5、昭和10年も同じく96.5であったが、60年には90.2に低下した。全国平均より6.5ポイントも低く、鹿児島県についで全国2番目に低い数字である。県全体として男性生産年令人口の流出が多いことを示しているが、とくに県内山間町村の老令人口率の著しい上昇は、今や深刻な社会問題となっている。産業別人口では農業者比率が象徴的である。大分県は、大正9年66.2%、昭和15年61.0%、昭和60年には3分の1の比率となったものの、対全国比10〜20ポイントの差には変わりがない。農業県 後発県として終始して来たことを示している。
参考文献 総理府統計局『総理府統計局八十年史稿』
[末広 利人]
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