医学 ( いがく)
藩主が力を入れた医師養成
二豊諸藩では、江戸時代後期、藩校の学科に医学を置いて、藩士の子弟に医学の教養を授け、また、医療の振興を図るため、藩内に 医学校 塾 を設置するようになった。
〈諸藩の医学〉
二豊 藩校 8校のうち、 進脩館(しんしゅうかん) (中津) 集成館 (臼杵)が医学科目を教授した。いずれも漢 洋医学であった。このうち、中津 岡 府内の3藩が医学校を設置している。 中津藩 では、藩主が医学に意を用い、寺院などに医員が集会して医学書の会読をしていたが機が熟せず、学校設立には至らなかった。医員は藩に願い出て長浜刑場において重罪人の死体を解剖するなど実地の研究を進めていた。文久元年(1861)、豪商の支援によって 医学館 を新築し(広池千九郎『中津歴史』)、医学の教授、医術の研究を行うことにした。この医学館は、明治4年の廃藩置県前には三ノ町に移転した。 岡藩 では、天明7年(1787)、医事の重要性を認識して弥五兵衛坂(竹田市)に 博済(はくさい)館 を設置、 室何遠(むろかえん) を総頭取とし、江戸から 唐橋世済(からはしせいさい) を招へいして教授とした。寛政の初め、大火によって藩費の支出が大きく医学は衰微の一途をたどった。文政年間(1818〜29)、藩校 由学(ゆうがく)館 の教授 司業らに医事統制と医官の教導に当らせ、医学校を復活して講義 対策などの課程を設けた。宇田枝村(清川村)の 古庄玄隆(ふるしょうげんりゅう) を登用して医官とし、医学事務に当らせている。この医学校も明治維新に際して閉校した。明治4年、再び、藩は 鷹匠(たかじょう)町(竹田市) 蓮生院 に医学校兼病院を仮設、医学寮と称したが、間もなく豊岡村(竹田市) 西光寺(さいこうじ) に移転、改革を行って再び博済館と称することにした。このとき、 日出(ひじ)藩 宇都宮 健哉(けんさい) を招へいして館務を 司(つかさど)らせた(黒川健士『岡藩医学梗概』)。明治4年現在の生徒35名、うち10名が寄宿生であった。職員は事務監督に当たる総宰1名、医学生の教導 診療に当たる都講5名など20名あまりであった。
翌5年には教授1名、助教1名など30名に増員されている。医学生は原書生、授読生、本課生に分かれていた。同年廃校。府内藩では、藩医 堀 恕庵(じょあん) が藩に医学校設立を建白して容れられ、自宅を校舎として 共和斉治(きょうわさいち)館 と称した。この後、藩は嘉永7年(1854)7月、校舎を新築して医学校としたが、同年11月、地震のため校舎が倒壊、安政2年(1855)再建した。この医学校は医師の養成だけでなく、藩内の医師の定例会を開催したり、 種痘 を行ったりする場所ともなった。慶応元年(1865)、 唐人町 に移転して 稽全(けいぜん)館 と改称した。日出藩では医学校は設けなかったが、藩主 木下 俊程(としのり) は、安政5年 致道(ちどう)館 を新築、典医 勝田安石(かつだあんせき) 松本 秀策(しゅうさく) を医学世話方に任じて、毎月1回、領内の医師を集め、医学研究をさせた。医師宇都宮健哉を長崎に派遣、蘭医について種痘法を学ばせ、これを医師たちに伝習させている。肥後藩郷校 成美(せいび)館 では、毎月3回、医学に関する会読が行われた。処方の科目が置かれていて、医師たちは本藩の 再春(さいしゅん)館 から送られた病案を開封し、即席でこれに処方して再春館に返送、同館では、これを審査して当否を下付する制度であった。ともに明治4年、 廃藩置県 に当たって閉校した。 私塾 の中にも医学を科目とするものがあった。下毛郡 中摩(なかま)村(山国町) 養翼園(ようよくえん) (塾主 村上 慎次(しんじ) )、東国東郡下原村( 安岐(あき)町) 餐霞堂(さんかどう) (塾主 岡亮策 )、速見郡津島村(日出町) 協議塾 (塾主宇都宮健哉)、玖珠郡森村(玖珠町) 学半舎(がくはんしゃ) (塾主 園田 朝弼(ちょうひつ) )の4塾である。前2者は医師、後2者は武士身分であったが、いずれも医を業とした(『日本教育史資料』)。
〈碩学と医学 本草学〉
中津藩医 前野 良沢(りょうたく) は、安永3年(1774)、杉田 玄白(げんぱく)らと ターフルアナトミア の翻訳に当たって指導的役割を果たすなど、わが国医学の進展に寄与した。 帆足 万里(ばんり) は、文化年間に藩主の命によって自宅に 稽古(けいこ)堂 を設け、 儒学 を教授する一方、医学を講義し、また、種痘術を施行した。
稽古堂における医学教育は、まず門弟に学問の基礎を習得させた後、5、6年間、医学教育を行う。生理解剖 病理 薬物の学習をへて臨床医学に及ぶという目標をたてている。窮理学の立場から漢方を見直し、「 傷寒論解(しょうかんろんかい) 」を作って主要教材とした。また、「 医学 啓蒙(けいもう) 」を著して漢蘭折衷の医学を唱道した(帆足図南次『帆足万里 脇愚山』)。 三浦 梅園(ばいえん) は、父 快順(かいじゅん)の家業を継いだ医者であった。宝暦6年(1756)に集中的に医学書をひもといたという。研究書に「用薬 須知(すち)」「 本草綱目(ほんぞうこうもく)」「大和本草」などの薬草関係書をはじめ、診療 処方などがある。梅園は医学的態度を自らの哲学である条理に求めた。 賀来飛霞(かくひか) は父 有軒(ゆうけん)の業を継いで医師となり、山本 亡洋(ぼうよう)に就いて本草学を修め、また、万里 シーボルト門下の兄 佐之(すけゆき)から漢洋医学を学んだ。天保11年 油布(ゆふ)岳、翌12年 弘化2年日向、天保13年日光 奥州 北陸、翌14年島原に歴遊して薬用植物などを採集、本草学の権威者となるとともに、日本植物学会の創始者ともなった(『大分県地方史』第93号)。
参考文献 高浦照明『大分の医療史』
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