豊後国分寺 ( ぶんごこくぶんじ)

巨大な七重塔はいつ倒れたか

〈鎮護国家の願いをこめて〉
 国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇の詔勅によって全国に建立された。『 続日本紀(しょくにほんぎ) 』に見える詔には、国分寺建立の目的、建立の基本方針等が記されている。すなわち 疫病 の流行、 凶作 などの社会不安と、これによる政治の行き詰まりを打開するため、仏法の救いを求めることとしたこと。そのため前年に全国に釈迦牟尼仏を造らせ「 大般若経(だいはんにゃきょう)」を写させたところ凶作はおさまったこと。このためさらに新たに「 金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」の教えをふまえ、天下諸国に七重塔一区を造らしめ、あわせて金光明最勝王経および妙法蓮華経各十部を写させたこと。そしてさらに各国に僧寺、尼寺を置き、金光明四天王護国寺、法華滅罪寺とすること等が述べられている。天災と疫病による社会不安、政治のゆきずまり、そういう現実的で緊急の問題を仏教の力で打破しようとする、いわゆる鎮護国家の姿勢が強く打ち出されているのである。この詔の2年後、東大寺 盧舎那仏(るしゃなぶつ)建立の詔が出されている。天皇が河内智識寺の盧舎那佛仏を拝したとき発願したものという。天平15年(743)10月の詔によれば、天皇はこの大仏を造るにあたり、「国銅を尽くして象を 鎔(と)かし、大山を削りて以て堂を構え、広く法界に及ぼして朕が知識となす」といい、さらに「それ天下の富を有つものは朕なり、天下の勢を有つものも朕なり、この富勢をもってこの尊像を造る」という強い自負を示している。国分寺の建立と東大寺の建立、この二つの壮大な事業は、ともに鎮護国家の願いのもと古代律令国家の命運をかけた未曽有の大事業であった。
〈豊後国分寺はいつ建てられたか〉
 天平13年の詔が出されたからといって、すぐに全国の国分寺が建立されたわけではない。当初、諸国の国分寺の建立は順調にはすすまなっかたようである。天平13年の詔で各国分寺に田10町が施入されることとなっていたが、これだけで壮大な寺院の運営ができない。このため政府は天平16年(744)国ごとに国分寺造営のため正税4万束の 出挙(すいこ)稲 をあて、さらに天平19年(747)には各90町(尼寺は40町)を加えるという措置をとった。国分寺建立が思うように進まなかったことがよくわかる。
 豊後国分寺の場合、いつごろまでに建てられたのであろうか。このことを直接証明する記録はないが、『続日本紀』天平勝宝8年(756)には豊前 豊後 肥前 肥後ほか諸国26国分寺に仏具、鎮壇具等が下賜されたとある。その意味から考えて、少なくともこの年までには、豊後の国分寺も建てられていたのであろう。その 伽藍(がらん)の実態は大分市教育委員会が実施した発掘調査の結果、ほぼ全容が明らかにされている。高さ60mをこえると見られる七重塔、壮大な金堂と講堂、 掘立柱(ほったてばしら)建物 の 食堂(じきどう)、まわりにめぐらされた大溝。どれを見ても、まさに「国華」とされた国分寺にふさわしいものであった。ただ例えば塔の場合で見ると、その規模は全国国分寺の中でも最大級のものであるが、基壇の化粧(仕上げ)は川石を積んだだけのものであって、大きさのわりに粗雑な印象は否めないものであった。
〈その後の豊後国分寺〉
 国分寺の建立は、たしかに壮大な事業であったが、鎮護国家の強い国策のもとで進められたものであるだけに、地方の実状にあわないところも少なくなく、その後も多難な道を歩まねばならなかった。政府は国分寺の経営が危うくなると、郡司等地方豪族の寄付 寄進を仰ぐようになった。特に平安時代になると、律令国家体制の動揺とあいまって、国分寺の衰退はもはや避け難いものとなっていった。大同4年(809)には、国分寺が衰退または焼失した場合、近くの私寺を代行させるという措置がとられた。さらに天慶2年(939)の太政官符によれば、諸国国分寺の建物 仏像の大半が大破朽損しているという。豊後国分寺も同様の運命をたどったようである。発掘調査の結果によれば、顕著な遺構および遺物は10世紀までのものである。
 ただ、豊後国分寺は、その後も寺としての法灯を守りつづけたようである。鎌倉時代の「 弘安 図田帳(ずでんちょう) 」には、 永興寺(りょうごじ) 国分寺二十三町八段、十三町八段永興寺 十町国分寺とあり、国分寺も当初の所領を維持していたことがわかる。その後豊後国分寺は、天台系の寺院として復興される。『 豊後国志 』や『 太宰管内志(だざいかんないし) 』には、鎌倉時代に奈良西大寺の僧忍性が再建したとしているが確証はない。ただ「 柞原(ゆすはら)八幡宮文書 」によれば、14世紀代に、 柞原宮 の 放生会(ほうじょうえ) に諸役を負担している。また永禄10年(1567)の「 賀来(かく)社由原諸院坊末寺書上」に 由原(ゆすはら)(柞原)社 の末寺の一つとして医王山国分寺の名が見える。その後江戸時代になって 府内藩 の助力もあって再興事業が進められた。現在の堂宇は、元禄期から宝暦期にかけての時期の再建になるものである。
 参考文献 『豊後国分寺跡』
[後藤 宗俊]

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