小番衆 ( こばんしゅう)

将軍直轄軍の五氏七名

〈将軍権力の基盤 奉公衆〉
 戦後の歴史思潮の上にたっての室町時代あるいは室町幕府の研究は、 守護大名 による地域領主制の形成を高く評価し、将軍の権威を相対的に低く評価する「守護領国制=地域的封建領主制論」「将軍 守護大名連合政権論」などが研究の潮流を占めていた。しかし、昭和40年代(1965〜)ころから、将軍権力の軍事的 経済的基礎の解明や、守護 国人(こくじん) 層諸勢力の将軍権力への求心性の態様の研究が始まり、将軍権力の独自性が究明されるようになった。特に、鎌倉期の地頭に系譜を引く国人領主が、本拠地を中核に領域を拡充して戦国大名化していく事例が、守護大名から戦国大名へと変身する事例より圧倒的に多いことから、国人領主に目が注がれるようになった。国人領主は、@守護 被官(ひかん)と、A御家人として将軍の奉公方となって将軍と直結し、将軍の直轄軍となるもの、との2種類に分類されることから、室町幕府の支配体制の根幹は、守護体制と御家人体制とさえいわれてもいる。これら将軍権力の独自性究明の中で注目をあびたのが 奉公衆 である。小番衆とも呼ばれる奉公衆は、将軍の側近にあって警固に当たる 近習(きんしゅう)などの親衛軍のまわりに編成配置されたが、身分的には 御目見(おめみえ)以上の直勤御家人であった。また、門閥的にみると、足利氏一門及び守護大名の庶流、足利氏の根本被官、有力国人領主に分類される。出身地は、近江 三河 尾張 美濃を中心に、北陸 山陰 山陽諸国となっている。
〈九州にもいた小番衆〉
 奉公衆体制は南北朝末期にはスタートしたらしい。そして永享年間(1429〜41)初期には体制が整い、 応仁(おうにん) 文明の乱を経たあと、将軍 足利 義材(よしき) の延徳3年(1491)の江州動座のころまで健全に機能していたといわれる。これら奉公衆の番方と氏名は、文安 永享 長享の番帳に書きあげられているが、その中に九州から選抜された唯一の奉公衆筑前 麻生氏 の名がみえる。では、九州で将軍の直轄軍となったのは麻生氏だけかということになるが、応永2年(1395)の状況を記した「京都不審条々」( 薩摩 禰寝(ねじめ)文書 」)という史料には、九州で30余名の小番衆がしたと記されている。条々は7か条からなり、その第7条に、応永2年 足利 義満(よしみつ) が諸国の地頭御家人の中から百余人を選抜し、小番の衆として御所奉公の名字に入れ、若君( 義持(よしもち) )の番帳に書き入れた、とまず述べる。続いて九州からは 九州 探題(たんだい) 今川了俊(いまがわりょうしゅん) の 右筆(ゆうひつ)(奉行衆)30余人が選ばれたとし、豊後からは 戸次(べっき) 日田 佐伯 吉弘 田原 3の5氏7名、日向からは伊東 宮崎 守永 土持(つちもち) 財部(たからべ) 和田 高木の7氏、薩摩からは渋谷 牛屎(うしばり) 和泉 谷山 あたゑの5氏、大隅からは 税所(さいしょ) 加治木(かじき) 平山 禰寝の4氏、計23名の名があげられている。残る10名前後の中に麻生氏らが含まれるものであろう。
〈九州の小番衆は在国奉公〉
 九州探題今川了俊の右筆として選ばれた30余人の小番衆は、遠国という悪条件下では直接の奉公がかなわないので、忠義を立てて将軍の 思召(おぼしめ)しを受け、永代御所奉公の名字を失うことなく、在国のまま、 如何(いか)なる乱世となっても忠節を尽すよう、命じられたという。すなわち、在国のまま将軍と直勤関係を結ぶことになったのである。また、30余人以外の人で小番衆になりたい人は、忠節を尽し、探題の推薦があれば選抜される約束であるとも述べられている。在国小番衆に選ばれた豊後の5氏7名が、小番衆としてどのような働きをしたかについては、ほとんど分からないのが実状である。例えば、応永16年10月、 田原 親幸(ちかゆき) が京都使節として上洛していること、あるいは、田原氏 日田氏が 朝鮮貿易 に従事していることなども、将軍家の経済的基盤を分担してのものかとも考えられるが、小番衆とのかかわりを示すものはない。
〈在国小番衆の機能の下限〉
 文安 永享 長享の番帳には筑前麻生氏の名がみえるが、豊後の5氏7名の名がみえないのはなぜであろうか。考えられることは、奉公衆から外されているという以外にはない。そこで、5氏のその後の動きをみる必要があろう。大友 少弐 菊池氏らの反発を招く九州探題 渋川 満直(みつなお) の後見を命じられた 大内 盛見(もりはる) は、対外貿易港博多をめぐって 大友 持直(もちなお) と対立し、永享3年6月敗死する。幕府は、持直の申しひらきを無視して追討を決定する。追討軍には持直の実弟 親隆(ちかたか) や 従兄弟(いとこ) 親著(ちかつぐ) の子 親綱(ちかつな) のほか、 大内 持世(もちよ) ら幕府勢であった。この時、幕府は「大友の若党の豊後国人日田 田原 佐伯」らに将軍家 御内書(ごないしょ)を授与するかどうかが検討されている。3氏が奉公衆であれば、そのような検討がなされるはずはない。したがって永享初期の奉公衆体制の整備の時、在国奉公衆という制度が廃止された可能性が強いことになる。しかし、それを証明する的確な史料は見当たらない。
 参考文献 川添昭二 「室町幕府奉公衆筑前麻生氏について」(『九州史学』第57号) 福田豊彦「室町幕府の奉公衆」(『日本歴史』第274号)
[橋本 操六]

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