米騒動 ( こめそうどう)
暴徒に震えた湯の町別府
米騒動は大正7年(1918)7月23日、富山県 新川(にいかわ)郡魚津町の漁村の主婦たちが、米価騰貴に苦しみ米の移出反対を叫んで起こした 所謂(いわゆる)“越中女一揆”に端を発し、同年9月12日福岡県大牟田市と周辺の三池鉱山の 騒擾(そうじょう)が終わるまでの50日間にわたる、米価の引き下げを求める大衆の集団示威あるいは騒動である。その範囲は1道3府37県38市153町178村(369か所)にわたり、参加員数は100万(公式発表70万)、軍隊派遣箇所3府23県(100か所)にのぼる大規模な騒動であった。
〈大分県の米騒動〉
県下の米騒動は8月13日夜から14日未明にかけて発生した 別府町 の騒動が唯一のものである。別府町の騒動については、8月15日付けの『 九州朝日新聞 』ほか幾つかの新聞あるいは『大分県警察史』に生なましい実態が記録されているが、別府町の『事務報告』にも公式の記録として「八月十三日夜多数ノ集団米穀商ヲ襲イ不穏ノ行為ヲ演出セシ不祥事アリ」と13日夜の事件発生を伝えている。新聞などの報道を総合すると13日の午後「米の 廉売(れんばい)ヲ希望スル者ハ今夜港町ニ集レ」と張紙がだされ、夜9時ごろ港町魚市場(現若草公園付近海岸)に5〜600名が集合、警察署長の説得で一度は解散したものの再度集合騒動に発展した。群集は二手に分かれ市内の 米穀商 を片はしから襲い、あるいは投石しあるいは門灯などを破壊し、米穀25銭(1升)売り出しの張紙などを出させて米価の引き下げを強要した。騒動は翌14日午前大分署からの応援も得て3時ごろ鎮静を見た。全体としては略奪 放火などはなかったが、以後一週間ゲリラ的な米穀商に対する“いやがらせ”はあったようで警察は厳戒を続けたといわれる。別府町に続き15日夜には北海部郡役所の所在地 臼杵町 で群集の集合と集団示威行為が起こっている。北海部郡長より県内務部に出された「在 米(まい)ノ動静及ビ地方民心ノ状況」と題する報告書には、臼杵町で「十四、十五日両夜ノ同志集合ヲ見ルニ至リシモ幸ニシテ事故ヲ生ゼズ退散スルニ至リタリ」と示威運動のあったことを記している。『大分県警察史』や『 指原(さしはら)カネの日記 』などによれば、15日夜公園に300名ほどの群集が集まり米穀商(指原 阿南商店など)を非難し不穏な状況になったが、潜入した警察官が町内三方面へ群集を分散誘導し一挙に検束にかかったので群集は逃散して事なきを得ている。このほか郡長報告などによれば、大分、竹田、日田、佐賀関、日出、杵築、佐伯、森、九重、三重、犬飼、四日市、長州、中津、国東地方にも不穏な情勢があった。
〈米騒動の背景〉
米騒動の背景には幾つかの要因があるが、その第一は米価の暴騰であった。その実態は全国平均で大正5年1升(1.8 )18銭であったのが翌年には25銭、同7年に入ると1月30銭、7月36銭、8月には45銭に急騰するありさまであった。これには 都市人口 鉱工業労働者の増大や蚕業など農業収入の増加による都市農村における米穀需要の増大、 全国的な不作、 大戦による外米輸入の減少、 地主 米穀商による米穀投機の盛行、などがあげられている。大分県にあてはめると大正2年から7年の間に大分市、別府町で人口がそれぞれ4〜5,000人も増加し、ことに別府町では大戦景気を背景に入湯、行楽客は年々100万人を数え、サービス業も著しい発展を見た。『 大分県案内 』によれば農村では、大正4〜7年に 養蚕 農家が1万5,837戸増え、 繭価(けんか)も38円から80円(石当たり)に高騰し、所得増を背景に米食が普及した。また大正7年の米の不作は生産県たる大分県も例外ではなく、4年から6年の収穫高98万石以上に対し、90万5,000石で著しい落ち込みを示し、米穀需要の増大と重なって米不足を深刻にした。
米価の高騰を予期してその差益を得るために行う投機は、このような米不足やインフレ、さらには大正7年から強行された シベリア出兵 への思惑などを背景としているが、県下においても臼杵の 指原商店 のように、大阪その他の豪商などと結び大量の米を移入して利益をはかろうとする者もあった。このほか一般の米穀商の中にも、県当局が「米価近時ノ暴騰ノ如キ取引市場各種ノ原因ニ基クハ勿論ナリト雖供給者ノ売惜ミモ亦一因タルヲ失ハズ」と指摘するような事実があった。
最後に指摘すべき要因に交通の発達があった。別府の騒動は九州で最も早く発生しているが、これには 京阪神航路 (広島経由など3航路)の船便を媒介として、8月9日の広島、同10日の京都 大阪 兵庫で起こった騒動がいち早く別府町に伝わったことが原因であったと考えられる。また県内においても 日豊線 が佐伯まで開通(大正5年)しており、内陸部は別にして沿岸部への情報の 伝播(でんぱ)は早かったと推定される。臼杵町の騒動が別府町に続いたのはその例であろう。
[三重野 勝人]
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