池永氏 ( いけながし)

薦八幡社司一族

 池永氏は 薦(こも)八幡社 の社司であり、戦国時代には、 沖代平野 に 睨(にら)みをきかす土豪となっていたが、 黒田 長政(ながまさ) に滅ぼされたため、いまそのあとはほとんど知られない。池永の初出は承久3年(1221)の「下毛庄検田目録案」(「 永弘文書 」)で、「大貞社免田十丁三段、已池永名」とあり、鎌倉初期、 大貞(おおさだ)社 の免田10丁余を池永名と称するようになっていた。
〈開発領主池永氏〉
 池永名は20年後の仁治2年(1241)には18丁と開発が進んでいる。池永名の開発領主が池永氏を称するようになったものと考えられる。池永氏の初見は、鎌倉末期の正和4年(1315)、 野仲郷 得光名内の5反をめぐって、 深水(ふこうず)権擬少宮司と争論した 池永帥房 重晴(しげはる) である(「 野中文書 」)。「御薦社司系図」(「 今仁文書 」)には、公池守−式佐−文世−佐雄−眷頻−眷海−宗海−行海−昌海−弥海−節海−弥重−重海−重行−重貞−重房−重真−重澄−重直−重昌−重清(晴ヵ)−重継(次)−重経−重宗−重得−重親−恒重−重弘と相承したとあり、「 宮成系図 」には重真が池永家の祖としているが、関係する史料を見出せない。 宗海(そうかい) については、長徳6年(1000)ころ、開発地を寄進して 深水荘 を成立させており(「 宇佐神領大鏡 」)、長保6年(1004)、大宰師 平 惟仲(これなか) と 宇佐 大宮司(だいぐうじ) 大神邦利(おおがのくにとし) との対立に、平惟仲側に与して敗訴となったものの、宇佐氏が大宮司職を独占するきっかけをつくっている。正和2年(1313)、野仲郷全得 世永両名を 神領興行令 によって宇佐宮神官 愛輔 と薦社 権惣検校(ごんのそうけんぎょう)次郎太郎 重実(しげざね) の譲りを得た 御許山(おもとさん) 座主(ざす) 野仲道性房 円空(えんくう) とが争っている。重実は重実 男(むすこ)とも蔑称されており(「永弘文書」)、池永庶子と思われる。
  重昌(しげまさ) については、元徳2年(1330)、 大家(おおえ) 野仲 両郷内 自見(じみ) 安恒両名を 封戸(ふべ)郷司 信道(のぶみち) が、重昌の 沽券(こけん)を 副(そ)えて、池永庶子である 一松(ひとつまつ)前擬少宮司 重郷(しげさと) へ去り渡している。 重晴(しげはる) (晴ヵ)については、嘉暦3年(1328)、本主尊幸の妻信阿より相伝した 久用(ひさもち)名 (中津市上宮永付近か)と某名に関する文書を小松雑掌浄心が抑留逐電したため紛失したと重晴の子息 重頼(しげより) が訴えて、付近の神官等に証判を請うた史料に登場する。次の 重継(しげつぐ) は延慶2年(1309)ころ、宇佐宮権少宮司、嘉暦2年(1327)ころ、少宮司、建武2年(1335)ころ、擬大宮司であったことが確認できる。重継の子息 重経(しげつね) は嘉暦3年ころ、薦社擬大宮司、観応3年(1352)ころ、宇佐宮擬大宮司で、恒富名(豊前市恒富)に対する野仲郷司の違乱を訴え、打渡しをうけている。重継のころ、少宮司 重種(しげたね) 権擬少宮司 重賢(しげかた) 擬神主 重興(しげおき) の名が何回か登場する。池永一族であろうか。
〈武士化〉
 正平21年(1366)、 懐良(かねよし)親王 は池永四郎へ高家城料所として、佐鬼翁跡である下毛郡久用1町 弘光5反を 宛行(あておこな)った。池永氏が武士として活躍しはじめていることがわかる。応永3年(1396)、宇佐宮領に対して十分の一反銭が課されたが、 池永安芸守 は上毛郡の 知行地(ちぎょうち)と下毛郡の薦社免田とを別途徴収された。この時の 段銭(たんせん)奉行の一人式部允 重高(しげたか) は池永庶家 東氏 らしい。このころ、 池永若狭入道重阿 は宇佐 弥勒寺(みろくじ) 造営段銭の徴収を請負った。応永10年8月、近くの下毛保に野仲郷司らが乱入刃傷したことに対して、薦社関係の神官僧侶が一揆契約して、これに対抗しようとした。その契約者に前擬大宮司薦社司重宗、伊勢守重得、若狭守重□、式部丞重海等がいる。応永24年、 守護 大内氏 は神領今永名を大神宮内が 沽却(こきゃく)したのを尋搜させ、池永松一丸へ 沙汰(さた)し渡させた。同34年4月、大貞薦社の南中楼門の立柱上棟があり、社司 池永重得 がこれを造進した。同月の弥勒寺西大門立柱上棟に池永助次郎が11人の奉行の一人であった。文明7年(1475)、 京都(みやこ)郡津隈40町地を 池永修理亮 へ与えられたが、同14年、20町分が 毛利 弘元(ひろもと) へ与えられた。このころ、大宮司 安心院(あじむ)公見 は 池永彦三郎 へ下毛郡 本稲重名 を 安堵(あんど)した。文明16年ころ、神主 池永満童丸 へ200文の御公銭の割り当てがあり、明応5年(1496)にも1貫文割当られた。このころ、池永近江守は、上意に背いたという理由で、大内氏から 闕所(けっしょ)(所領没収)された。 大友氏 支配時代の永禄元年(1558)ころ、自見村で犬の事から 喧嘩(けんか)となり、 被官(ひかん)親 池永豊前守 重則(しげのり) 、その舎弟次部丞その他同名衆がことごとく自見村付近へ打越し合戦となった。同じころ、本自見名内 王田嶋(おうだがしま)をめぐって、宇佐宮番長と 大宝寺(たいほうじ) との間に争論がおこり、池永重則が大宝寺側証人として、間に入って調停につとめている。
〈黒田氏に亡ぼされる〉
 黒田氏が入国したとき、池永氏は豊前の諸土豪同様、恭順の意を示したが、やがて、 肥後国 一揆(いっき) に呼応するが 如(ごと)く、付近の犬丸 福島 賀来 野仲氏等と一揆して、それぞれの居城に 篭城(ろうじょう)し抵抗した。落城の際、一揆20余人切腹したという(「 両豊記(りょうほうき) 」)。一子4才の乙次郎はひそかに上洛し、20余年後帰参して 東(ひがし)小右衛門と名のり、大貞宮の神主となった。 池永城 落城と同時に薦社の堂塔も破却され、上修院という老僧1人となっていた。元和の「 人畜改帳(じんちくあらためちょう) 」の池永村は高853石、本百姓27軒、 牢人(ろうにん)5軒、人口179人、牛24、馬8という大村になっていた。
 参考文献 『中津市史』 『三光村誌』
[竹本 弘文]

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