古要社 ( こようしゃ)

宇佐宮放生会にくぐつを奉納

〈所在〉
 中津市東境を 周防灘(すおうなだ)へ注ぐ犬丸川の中流部東岸の大字 伊藤田(いとうだ)字 洞(ほき)ノ 上(うえ)にある古社で、 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)( 神功(じんぐう)皇后)、一説には八幡三座を祭る。
〈古表社免田 千萬名(ちまみょう)〉
 古表社の初見は室町中期の応永某年11月25日付けの「宇佐大宮司公則 前大宮司公満連署安堵状案」(「 到津(いとうづ)文書 」)に「前権擬少宮司頼輔跡古表社司職、同免田畠千萬名水垣一町」ほかの地を某に 安堵(あんど)するというもので、今、 古表社 というのは、 山国川 河口の福岡県築上郡吉富町大字小犬丸字喜連島にある。しかし、千萬名は古表社の付近にあったことが確認できるから、室町時代、古要社は古表社と云っていたことがわかる。古表社司職を帯していた 頼輔(よりすけ) は、「 益永系図 」によると宇佐宮 政所惣検校(まんどころそうけんぎょう) 行輔(ゆきすけ) の庶子 文輔(ふみすけ) の孫らしい。また 千萬名 については、正和元年(1312)12月2日付けの「鎮西下知状」に「野中郷内千萬名内田地四段号河竹事」(「 薬丸文書 」)とみえ、字「河竹」は古要社の前の犬丸川対岸の大字福島の字にある「川竹」のことと思われる。この田地は、御家人 高並(たかなみ)小次郎入道 妙願(みょうがん) が買得していたのを、 神領興行法 によって、宇佐宮御馬所検校 藤原 重連(しげつら) が、 鎮西探題(ちんぜいたんだい) の裁許によって取り戻した。応永11年(1404)には、神領千萬名内の田2丁3反40代と畠2丁反の計4丁6反余が番長 田染(たしぶ)弥五郎 栄重(ひでしげ) の宇佐下宮免田として注進されている(「 永弘文書 」)。千萬名は古要社や宇佐下宮等の免田が混在していたらしい。
〈宇佐宮放生会と 細男(くわしお)の舞〉
 応永27年には、100余年ぶりに宇佐宮 放生会(ほうじょうえ) が 守護 大内 盛見(もりはる(み)) の支援によって再興され、両古表社のクグツもこれに参加した。古表社のクグツが宇佐宮放生会に参加する由来については、養老4年(720)の 隼人(はやと)の乱 に、八幡大神が神軍を率いて戦場に赴き、伎楽を奏した故事によるとも、神功皇后の三韓征伐に際し、住吉大明神のお告げによって、 鹿島(しかのしま)大明神を招き寄せるために 細男舞(くわしおのまい) を舞ったことによるとも伝承している。(『 太宰管内志(だざいかんないし) 』)。『宇佐宮寺造営并神事法会再興日記」(「到津文書」補遺)の応永27年8月15日の条に「大宮 若宮 頓宮より浮殿ニ御臨幸これあり、龍頭 鷁首(げきしゅ)の船ハ社家役、伶人これに乗り青海波を奏す。古表船二 艘(そう)、一艘ハ下毛郡千間名の所役なり、一艘ハ上毛郡吉富郷の所役なり。海上において、 傀儡(くぐつ)これを舞う」とある。近世に入って、元和3年(1617)、領主 細川 忠興(ただおき) が放生会を再興したが、この時、大小58個の人形をことごとく新調した。昭和31年(1956)、これは国指定の重要民俗資料となった。元和の放生会では、「傀儡子船二船、一艘ハ上毛郡小今井(中津市大字小祝)、一艘ハ下毛郡今津役。浮殿御前へ漕ぎ参り、舞楽を奏す。」(「北和介文書」)となっていて、犬丸川を3qほど下った河口の 今津 の船に乗せて、 和間 の浮殿まで漕ぎ寄せることになっている。応永の放生会は千間名と 吉富郷 に船一艘を割当てているが、和間まで漕ぎよせたであろうか。8月朔日より細男の試楽が始っており、放生会の際に出仕した古表宮のクグツを洗い清めたという「化粧水」が宇佐市大字北宇佐の 百体殿(ひゃくたいでん) の西の路傍にあることを考えると、クグツは陸路、百体殿(上毛 下毛のクグツは合計すると、約100体となるから、これを安置する社の意味か)までやってきて、神幸の行列に加わったらしい。また、元和の放生会に出仕した上毛郡の古表社は、船は小今井役であっても、クグツ師は高瀬より9人も出仕しており、下毛郡の分も、伊藤田村の人ばかりではなかったのではあるまいか。上毛郡の古表社では、宇佐百体殿そばの 真名井(まない)に「古表神躰化粧水石玉垣」「小犬丸村中、子祝村中」「幸子村中、広津村中」「上毛郡古表社伺官、渡辺右京 藤原(重辰)」「延宝八庚申年九月吉辰」の銘のある井桁を残しており、中世の吉富郷にあたる地域の人々がクグツの化粧井戸の整備に協力している。下毛郡の古要社でも、江戸中期以降、今津組大庄屋より、古要社神殿建築のため、御神事場である上ノ川原で、五か年間、晴天5日あての縄張芝居の興行によって、その費用を得ることを許可してほしいと 中津藩庁 に願い出ている。古要社を今津組支配地域で維持していることをうかがわせる。
〈 神相撲 〉
 古要宮では 閏(うるう)10月12日、宮座の人々が拝殿に幕を張り、高さ1.5mほどの舞台を設け、古要楽を催し、次いで東西よりおのおのは12体の相撲人形が登場して相撲をとる。相撲人形は木彫で、東方の横綱格である「祇園さま」は67p、西方の横綱格「住吉さま」は33pで最も小兵である。相撲は中堅どころから西方が連敗し、やがて住吉さまが登場し、小兵ながら、東方の残る神々を次々に投げ、最後に大兵の祇園さまを倒し、東方の神全員を押し倒してしまう。
 参考文献 『中津市史』
[竹本 弘文]

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