金剛宝戒寺遺跡 ( こんごうほうかいじいせき)

古刹周辺から古代瓦のナゾ

〈大分の名 刹(さつ)金剛宝戒寺〉
 金剛宝戒寺は大分市上野丘2丁目、 大分上野丘高校 のすぐ近くにある 真言宗 の寺院である。『 豊後国志 』等によれば、神亀4年(727)僧 行基(ぎょうき)が勅により、大分郡 荏隈(えのくま)郷 五丁津留(今の 古国府(ふるごう) )に建てた。その後長和年間に再営して 定朝(じょうちょう)作の大日如来を、さらに永久年間の修飾後運慶作の金剛二像を置いたという。扁額は聖武天皇の 宸筆(しんぴつ)とも伝え、全盛時には寺境300歩、僧房60区をこえる大 伽藍(がらん)であった。さらに鎌倉時代の元弘年間に 大友 貞宗(さだむね) が再興したという。これらの記事はもとより信じがたいが、『 大友家文書録 』によれば、嘉暦2年(1327)に大友貞宗が建立したとしている。特に中世の事績については『豊後国志』や「 雉城(ちじょう)雑誌 」などのほか、「 由原(ゆすはら)宮遷宮等次第記」、『大友家文書録』等に見えており、相当の寺格をもつ名刹であった。これだけの寺院であるが、上記のようにその建立の時期は明らかでない。ただ『豊後国志』がもと金剛宝戒寺が建てられたところとする古国府地区からは、かつて「金剛宝戒寺大工道■■■」という銘の刻まれた平安時代の 瓦(かわら) が出土しており、年代はともかく『豊後国志』等の記事に符合している。
〈古代の瓦のナゾ〉
 さらに注目されるのは、現在の金剛宝戒寺の近くでも、古代の瓦が出土していることである。この瓦の中には、 単弁 軒丸瓦(のきまるかわら) があり、これは奈良時代のものである。付近は民家が建て込んでおり、発掘調査等も全く行われていないので、この瓦をもって奈良時代に同じ地に寺があったと断定することはできないが、遺跡の広がる上野の台地のすぐ南の古国府 羽屋地区は人も知る 豊後国府 の推定地である。上野の台地についても、平安時代の荘園関係史料に「 高国府(たかごう) 」の地名が見える。この高国府については、渡辺澄夫は、この台地のどこかに国府の 在庁官人(ざいちょうかんじん)等の館などがあり、古国府あたりにあった国府に対し高国府としたのであろうとしている(『大分市史』上巻)。あるいは、この高国府自体が国府であった可能性も考えられるところである。したがってこれに近い金剛宝戒寺遺跡の瓦出土地が奈良時代の寺であった可能性は高いといえる。
 ところで古代の瓦といえば、金剛宝戒寺に近い大分市 永興(りょうご) の 永興寺(りょうごじ) からも、同じよう奈良時代の瓦が出土している。ここで出土している瓦は、 複弁十葉軒丸瓦 というもので、軒丸瓦の 瓦当面(がとうめん)に十枚(十葉)の蓮の弁をデザインしたものである。この瓦は、 豊後国分寺 の瓦のうち最も古い瓦とまったく同型のものであるが、両者つぶさに比較してみると、永興寺遺跡のものが祖形品であり、国分寺の方がこれを模倣して作られたと見られるのである。永興寺については「 弘安 図田帳(ずでんちょう) 」に「永興寺国分寺二十三町八段、永興寺十三町八段、国分寺十町」などとあり、中世に国分寺と深いかかわりを持つ寺とされているところである。しかも国分寺より多い所領を持っていた。そうした寺院が、国分寺の建立当初の瓦の、その祖形となる瓦をもっているわけである。こうしてみると、奈良時代のころ、それも国分寺が建立される天平年間より古い時代に、国府を見下ろす台地に二つの寺があった可能性が出てくるのである。
〈「豊後国風土記」の僧寺と尼寺〉
 そこで思い起こされるのが『 豊後国風土記 』の総記の条と大分郡の条に見える記事である。ここには「寺二所、僧寺、尼寺」とある。従来この「二寺」はそれぞれ豊後国分寺と国分尼寺をさすとみられていた。しかし「豊後国風土記」の撰述は、西海道節度使として 大宰府 に赴任していた 藤原宇合(ふじわらのうまかい) の指揮によってなされたとする説が有力であり、彼の任期である天平4年から 大宰帥(だざいのそち)の任を終えて帰京するまでの数年間に撰述された可能性が高いものである。したがって、『豊後国風土記』の二寺の記事は天平13年の国分寺建立の詔発令より前の記事ということになる。『豊後国風土記』とは成立の事情を同じくし兄弟風土記とされる『肥前国風土記』にも総記の条に寺二所(僧寺)、 神埼(かんざき)郡、 佐嘉(さが)郡条にそれぞれ寺一所とあるが国分尼寺のことを記してない。しかも肥前国分寺は佐嘉郡内の大和町にあり、神埼郡のそれは明らかに国分寺ではない。つまり『肥前国風土記』の場合も、国分寺建立以前の寺の数を示しているらしいのである。おそらく『豊後国風土記』の寺二所も国分寺以前の大分郡の寺をさしていると考えられよう。そうだとすると金剛宝戒寺遺跡と永興寺遺跡の瓦が、にわかに注目されるのである。
 この二つの遺跡のある上野から永興にいたる台地は、さきに見たように豊後国府の推定地に近いところであるが、同時に古墳時代以来の大分地方の有力豪族である大分君の本拠と見られるところである。金剛宝戒寺と永興寺の遺跡は国分寺建立以前に建てられ、豊後国府および 大分君(おおいたのきみ) にかかわり深い寺の存在を示唆していると思われる。
[後藤 宗俊]

[こ]メニューに戻る