郷校 ( ごうこう)
官民協力の教育機関
江戸時代の中後期に、 藩校 教育の補助または 寺子屋 教育の発展として設けられた教育機関。
〈二豊の郷校〉
全国の郷校の総数は418校。二豊においては8校の存在が認められる。文政年間(1818〜29)に創立の 梅石亭(ばいせきてい)(久住町)をはじめとして、 郁々堂(いくいくどう)(野津原町)、 茂園(もえん)学舎(宇佐市)、 成美館(せいびかん)(大分市)、 広徳舎(こうとくしゃ)(竹田市)、 一貫(いっかん)舎(大分市)、 修身(しゅうしん)舎(日出町)、中津 市校(しこう)(中津市)である。このうち、修身舎は明治2年(1869)に、中津市校は同4年に設立されているが、このほかの郷校は安政 慶応期(1854〜67)に設立された。これらの郷校は、藩直営による郁々堂 修身舎、藩主をはじめ有志によって設立された中津市校、藩と庄屋をはじめとする有志の協力による5校がある。この郷校は藩士 郷士子弟の教育に当たるもの、庶民教育に当たるものの2種類がある。広徳舎 一貫舎 中津市校 修身舎は庶民向け郷校とされている(吉川弘文館『国史大辞典』)。 幕府領 肥後藩 森藩 は遠隔地に郷校を設け、 岡藩 広徳舎 府内藩 一貫舎は 心学 の、旧 中津藩 中津市校は 洋学 の発達にともなって設置された。
〈郷校の運営〉
【 梅石亭 】肥後藩郷校。校舎所在地は直入郡久住村本町(久住町)。当時の 総庄屋 兼代官 坂梨善兵衛(さかなしぜんべえ) が設立に尽力、郷校の維持方を設けた。つぎの総庄屋 佐藤 唯之允(ただのじょう) が設立資金の調達に奔走。学士は 岩永 勝左衛門(かつざえもん) 、梅石と号した。梅石のあと肥後藩の儒官5名が継承した。職員は文武総世話係1、武芸誘導方3、横目役(勉惰の監視)1、教導1(御家人以上をもって 充(あ)てる)、助教2ないし3(高弟を充てる)があった。明治維新前の生徒数は未詳、維新後は60名、うち、通学生は48名、寄宿生は12名であった。入門年齢は、御家人については、文学は7歳、武芸は15歳であった。謝儀(謝礼)は応分。学科は、文館では漢学 筆道の2科目、武館では剣術 槍術 砲術 居合 体術を教え、生徒は文武両道を兼修した。学校経費は 久住 手永(てなが) の歩 入会(いりあい) 所金を貨殖して一部分を充て、嘉永年間には阿蘇郡山鹿村の新 井堰(いせき)から得た納米をくみこんだ。明治3年、 藩政改革 によって廃校。
【 郁々堂 】肥後藩郷校。学校所在地は大分郡野津原村旧富講所(野津原町)。安政6年(1859)、鶴崎士族の 脇儀策(わきぎさく) が藩の命を受けて 野津原手永 文芸教導となって教育に当たった。職員は総庄屋代官兼務1(文武の総轄)、見締役手付横目兼務1(文武の監視)、誘導方2、文芸教導1。いずれも御家人以上が任じられた。生徒数は70人。学科は漢学 算術 習字 砲術 槍術 剣術 体術 居合で、生徒は文武両道を兼修した。試験は春秋のうち1回、郡宰による見分が行われた。ただし、武芸は鶴崎(大分市)で見分が行われることもあった。成績優秀な者には、郡代 総庄屋 横目役 師範列席の上、 扇子(せんす)1対などが与えられた。学校の経費については不詳である。明治3年、藩政改革によって廃校。
【 成美館 】肥後藩郷校。学校所在地は大分郡鶴崎町旧茶屋(大分市)。文久元年、 稽古(けいこ)所 を改めて新校舎を建設、成美館と称した。これより先、天保6年(1835)、 毛利 空桑(くうそう) は稽古所の教導師となっていたが、万延元年(1860)、文武館の設立を藩に建議、成美館の設立となった。職員には番頭1(文武の総轄)、見締役3(文武稽古の視察)、文学教導1、文芸師役各術1ないし2、根居役1、物書2(庶務 会計)の役があった。生徒数は150名。 束脩(そくしゅう)(入学金) 謝儀(しゃぎ)は特に定めていない。学科は漢学 医学 算術 兵学 砲術 弓術 馬術 槍術 剣術 体術 軍貝 遊泳 居合が課せられ、文武兼修の制度であった。試験は年1回、番代が見分した。また、藩主が参勤交代の際、文武の芸を観覧し、2、3名を選抜して御前講を行わせた。成績優秀者には藩主の賜服、家老の賞詞などが与えられた。学校経費は稽古所時代から有志の拠出金や船手会所の余金を充てた。成美館の建築費も同金から支出された。
【 修身舎 】森藩郷校。学校所在地は速見郡 頭成(かしら)町(日出町)藩主茶亭。創立に当たっては、旧藩主 久留島 通靖(みちやす) の提言、藩臣 宮野 元貞(もとさだ) らの尽力があった。教授には 加藤 賢成(けんせい) が任じられた。職員には校監1(森校より交替勤務、郷校一切の管理及び教授、終始、加藤賢成が当たる)の役があった。生徒数は90人、うち、寄宿生が30人であった。束脩謝儀は無料。学科は漢学1科。教授法は四書の口授から始め、自習できる者にはこれを許し、文義を解する者には講義を行い、他の書史を熟読させた。入学の日は礼服を着用して孔子像に礼拝させ、生徒の遵守すべき訓条を読み聞かせた。開設後、4年6か月で廃校。
【 茂園学舎 】幕府領郷校。学校所在地は宇佐郡四日市村(宇佐市)。安政3年(1856)、伊勢山に新校舎が建設され茂園学舎として発足、校主に 長梅外(ちょうばいがい) が就任した。このあと、文久2年(1862)、中津藩の 白石 照山(しょうざん) が校主となった。同学舎の学制や組織については未詳。郡代と民間有志の協力で維持された。
参考文献 鹿毛基生『大分県の教育史』『日本教育史資料』
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