郷中法度 ( ごうちゅうはっと)
農民統治の基本方針
江戸時代、幕府 諸藩が農民に対して発布した法令 心得。様々な法度の遵守 代官ら役人への服従などを説いたり、農民の生産活動 生活全般を細かく規定したりして、 年貢 の確保や農村の維持を図ろうとしたもの。幕府が慶安2年(1649)に発布した「諸国郷中 江 被仰出」、いわゆる「 慶安御触書 」が有名であるが、二豊の諸藩においても様々な郷中法度が発布されている。
〈岡藩の「明暦法度」発布〉
江戸時代の農民は、年貢負担者として幕藩体制の基礎を支えていたため、厳しい支配と統制を受けていた。このような幕府のめざした農民統治の方向をこまかくまとめたものが「慶安御触書」であり、これが江戸時代を通じて農民統治の根本原則となっていった。こうした幕府による政策の影響を受け、 岡藩 では、明暦3年(1657)8月に69か条の「 明暦法度 」が発布された。これまでにも家臣に対して農民統治に関する法令は発布されていたが、農民を対象としてまとめられた法度としては最初のものであり、岡藩における農民統治方針の表明といえる。
〈年貢の完納を第一に〉
「明暦法度」の内容についてみると(『大分県史科』17)、年貢やその他の納入物についての規定が多いことに気付く。それと同時に、農地や山林等についての規定、耕作の仕方についての規定も多くなっている。これらの規定が多いのは、藩が成立する経済的基盤がここにあるためであり、徹底した統制が必要とされたためである。年貢などの納入についてみると、12月15日を期限として完納することが明記され、 品質に特に気を付けさせている。 そして、 どのような理由があっても年貢完納以前に他借を返済することを厳禁している。何よりも年貢の完納を優先するからである。また、開田 開畠 苅畠などの貢租規定や、耕地が耕作不能になった場合の規定、 麻苧(あさお) 真綿 漆 などの納入量規定もある。農地管理にあたっては、「油断なく精入れ、端々まで少しも荒れ仕らざる」ように、普段から気を付けなければならないと規定されている。この規定とともに、 薮(やぶ)管理 山林管理についての規定もある。農地や薮 山林などをしっかり管理し、耕作をはじめ生活全般に支障をきたさないように、ということである。そして、もし病気などの理由によって耕作ができなくなった農民がいた場合は、村の責任で、村や組の農民が相互協力して、耕作することを指示している。あくまでも農業生産活動を遅滞なく完遂させようとしているのである。
〈農民の生活を厳しく統制〉
また、農村における生活 秩序を維持するために、村役人の職分 農民の分限についての細かい規定がなされている。村役人の職分については、庄屋をはじめとする給米 引高が規定されており、村役人層を藩権力がしっかり統制し、村役人を藩権力の代行者として位置づけようとしている意図をみることができる。農民の分限については、衣類として「絹布 さらし 帷子(かたびら) 薄(うすもの)の帯巻物の類」は 贅沢(ぜいたく)品として使用を厳禁し、「身分あわざる大家」を建てることも禁じられている。近世が厳格な身分制社会の上に成立しており、その維持をめざす以上、農民の分限をしっかりと知らせる必要があったのである。この他に、農業経営は、夫婦を中心とした小家族によるもので、いわゆる「小農」経営であるが、これが成り立つように農村の労働力を確保させるための規定もある。
〈郷中法度にみる農民統治の方針〉
他藩においてはどうだろうか。 府内藩 が本格的な農民生活の統制に乗り出した宝暦2年(1752)「申渡ヶ条書」についてみてみよう。これでは、15か条のうち年貢に関する条項が6か条にのぼっており、農民の最大の義務を年貢の完納と位置づけ、農民生活の引き締めを厳しく戒めている。そして、農民の生活を質素倹約 簡略第一を旨とするものとするために、村役人に常に農民を教え諭すように指示している。ここでは領主の「御 憐愍(れんびん)」 「御厚恩」が強調され、農民に対する愚民観を持っているという封建支配の特徴をみることができる。このような農民統治の方針は、岡藩の「明暦法度」にみた方針とほぼ一致するものである。そして、他藩の郷中法度においても同様の農民統治の方針が示されているのである。
〈郷中法度から倹約令へ〉
文化2年(1805)、 杵築藩 は郷中法度を発布した。この法度は、従来の内容に加え非常に細かく衣食住全般にわたって贅沢を禁止する項目が多くなっている。杵築藩においては、これが体系的な最後の法度となった。以後は贅沢の禁止 倹約のみを布告する「 倹約令 」となったのである。他藩においても時期は異なるが同様に、農民統治方針を示したものから、倹約を強制するだけのものへと変わっていったのである。
[佐藤 晃洋]
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