宇佐宮御供田・御菜免料所 ( うさぐうごくうでん・ごさいめんりょうしょ)

宇佐宮番長の支配

〈宇佐宮番長〉
  宇佐宮 は弘仁年中(810〜24)に宮政所 経営所としての 下宮(げぐう)( 御炊殿(おいどの))が成立。下宮御炊殿とは尊神一躰分身の社壇で、御神宝物を安置し奉り、月並不退御神事を執行する所であった(「 永弘文書 」)。下宮は南側すぐ前を流れる 御物川 ( 御食川 )の水を用い、上宮への朝夕の御供を炊く御殿をもっていた。下宮管理の責任者が 番長 で、御炊殿番長 番長大夫とも呼ばれた。番長は宇佐宮の御供米在所と御菜免在所を代々知行し、また御神事の時に役所(御供所供官等)に申し付け、御法味に備えることを職務としていた。つまり、宇佐宮の祭祠や、宗教的行事等に関する一切の経済関係事務を掌握していたのである。外に御供米の徴収、神事行事の設営、下宮建物の営繕などにも関与していた。また、御炊殿の雑用に当たる、封郷から徴用された雑仕 女加用の監督者でもあった。延久元年(1069)に 宇佐弘国 ( 永弘氏 )が 権(ごん)番長に任ぜられ、後に永弘氏が代々番長職に補任された。
〈御供田料所〉
 宇佐宮年中御供米分として、豊前国正御供田 岩崎荘 豊後国正御供田 小野荘 、同国 田原 別符(べっぷ) があった。正御供田は 聖武(しょうむ)天皇の御宇、神亀 天平年中(724〜49)の寄進といわれ 封戸(ふこ) に端を発したものと考えられている。御供米ははじめ 浮免(うきめん)形態であったが、鎌倉末期から南北朝初期に 定免(じょうめん)化したといわれる。しかし、岩崎荘の「後田」が長元元年(1028)2月13日に見えることから、長元ころの成立とする考えもある。その正御供田 (正御供米を負担する田地)は均等 名(みょう)で各名の田積は8反30代であった。もしその田地が失地となった場合、名内の「余地」「後地」を充当し、それでも不足する時は「近所の田地」を以て補充することが規定されていた。正御供田には「御供田成敗役人」としての収納使、「名田進退の役所」として部(戸)主がいた。その下に駈士と称する御供田耕作者がおり、彼らは神人階層で、宇佐宮 行幸会(ぎょうこうえ) に騎馬の武者役を勤め、その職務が名称となったと想定される。
 岩崎荘の初見は正平12年(1366)で、同21年当時、荘内は恒弘 貞平 弘行 末宗 清末 為重の6名であった。各名とも正御供米50束(分米2石7斗5升)、 厨家(くりや)米50束(分米2石5斗)、祭料9束(分米3斗6升)、行稲25束(分米7斗8升)を負担していた。当荘は8月の 大嘗会(だいじょうえ) から翌年1月の有篭会までを分担していた。永正(1504〜21)のころ、収納使として橋津掃部助、部主に心乗坊 福田坊 橋津掃部助が確認できる。
 小野荘は 来縄(くなわ)郷 の内に所在、現在の豊後高田市大字高田の御玉。「御玉荘」または「高田御玉小野の荘十二名次第」とあり、 桂川 下流右岸、現在の 若宮八幡宮 鎮座地付近一帯にあった。小野荘は「小野庄吉成御駈士」とある建武4年(1337)9月が初見。当荘は12名編成で、面積は36町歩。明応10年(1501)ころの12名は、吉成名 行成名 成安名 清末名 かうまん名 正行名 為成名 ひろ本名 光成名 二郎丸名 ちか時名 久次名である。元亀年中(1570〜73)に本社や当若宮社の御剣役 陳道役 御かせの役 御供所の役が定まり、 吉成伊豆守賢安 は若宮社司で浜検校を兼ねている。天正7年(1579)ころに、 大友氏 の社奉行 奈多鑑基(なだあきもと) 鎮基(しげもと) の非道を訴えた宇佐宮一社中目安状写によると、小野荘12名と岩崎6名は 押領(おうりょう)され、御神盃并びに御供方一円相止どまったことがわかる。本来は番長永弘氏の所領であったものが、永禄 天正期には宇佐大宮司 宮成氏 の所領となった。
 下宮御炊殿御供米料所として、田原別符(大田村)がある。「宇佐大鏡」によると、田数59丁7反30代で、天喜5年(1057)3月 紀季兼 が大宮司 宇佐公則 の外題判を申請して開発、保元元年(1156)以後に不輸神領となった。御供米は宇佐宮に定米中より30石を貢納していたが、大友一族 田原氏 の支配で次第に中断した。
〈御菜免料所〉
 御菜免分として、豊後国 津守(つもり)別符 勾保(まがりほ)(大分市)、豊後国 田染(たしぶ)荘 重安 末次両名(豊後高田市)、豊後国来縄郷内小野名半分(豊後高田市)、同国貫荘今吉御薗(北九州市小倉南区)、豊前国下毛郡 宮時(みやとき)荘 (中津市)、同国 辛嶋(からしま)郷 御薗屋敷(宇佐市)、豊前国下毛郡 本自見(ほんじみ)名 (中津市)、豊前国下毛郡 深水(ふこうず)荘 扇丸御薗(三光村)、豊前国下毛郡佐知屋敷(三光村)、広山荘寺家長分役田(宇佐市)、高家郷内イカリ田地(宇佐市)、山下田地(宇佐市)などが確認できる。貫荘の今吉御薗は文治年中(1185〜90)から、番長の支配下におかれた。御薗というのは、御神事の時、御菜や菓子等を宇佐宮に奉納する重要な料所であった。御薗屋敷とは年中御菜を作り、御法味に備える重要な役所として知られる。深水荘扇丸御薗では、栗を奉納していた。永弘氏は御菜免料所を売却したり、有力な在地領主によって押領され、実質的支配は困難になっていった。
 参考文献 『中世社会史の研究』 『大分県地名大辞典』44 大分県(角川書店)
[乙・ 政已]

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