大分県護国神社 ( おおいたけんごこくじんじゃ)
戦没者と遺族
明治8年(1875)創建の 招魂(しょうこん)社 に起源を持つ。 満州事変 日中戦争 突入後の戦死者の激増を背景に、昭和10年(1935) 大分県招魂社 、14年大分県護国神社と改称して、組織を強化した。戦場に 斃(たお)れた英霊を 祭祀(さいし)し、国家主義の鼓吹と戦意高揚の拠点となったが、戦後は神社本庁に所属する宗教法人として再出発し、今日に至っている。発足以来の神苑拡張は著しいが、大分市大字牧字 松栄山(しょうえいざん) の位置は変らない。
〈招魂社の発足〉
招魂社は、明治7年の佐賀の乱、征台の役における戦死者を 祀(まつ)るために、「県官其他有志ノ者相謀リ、其筋ヘ出願許可ヲ得テ」、8年2月着工し、10月18日落成した。落成の臨時祭典に際し、元治元年(1864)京都で戦死した大分郡 荏隈(えのくま)村出身 若杉弘之進 、慶応3年(1867)日田で獄死した日田郡 柚木(ゆのき)村出身の 長春堂 を合祀したが、以後、 日田県一揆 や 神風連(じんぷうれん)の乱 西南戦争 をはじめ、 日清 日露戦争 など、内乱や対外戦争に斃れた英霊を合祀していく。当初の例祭日は変更され、明治12年以降は春秋2回の皇霊祭当日に執行されるようになった。18年には神殿拜殿が新築され、「清楚 幽邃(ゆうすい) 真ニ忠魂義胆ヲ慰スルニ適」した場所となった。
〈祭神の増加〉
招魂社が、大分県招魂社を経て大分県護国神社と改称するまでの「事変戦役別」祭神数は、つぎのとおりである。「事変戦役別」の項は原資料のままとした。
〈昭和8 9年の工事〉
満州事変以後の祭神の増加と 国体明徴運動 の高揚を背景に、「境内地及外苑ノ大改修並ニ美化」が図られることとなった。工事は、昭和8 9両年にわたったが、数万円の工費と約1万人余の奉仕人員を要したという。神殿 拜殿 幄舎(あくしゃ) 社務所 中門 鳥居 玉垣 手水鉢 灯篭等を含む境内地は729坪、外苑が1万7,091坪であり、基本財産として、千円弱の銀行預金のほか、神葬地 畑 山林などの不動産3町9反余を有していた。10年10月大分県招魂社と改称したのち、14年4月からは内務省令により大分県護国神社と称し、 神饌幣帛(しんせんへいはく)料供進神社となった。しかし、第2期工事に予定されていた社殿の新築等は、日中全面戦争突入という事態の中で、暫時延期された。
〈昭和18年の遷座祭〉
大分県護国神社と改名した14年には、退役歩兵中佐で県町村長会副会長であった 麻生国彦 を社司に迎え、社掌も数名任命された。県職員2名、連隊区指令部1名のほか、県下各市長 各郡町村会長 在郷軍人会郡市連合会長 神社近在6村村長を崇敬者総代とする組織も完成した。供進金は県費による2,500円のほか、人口1人につき1銭を県下全市町村から徴収したが、15年から1戸あたり10銭とされた。護国神社奉賛会も組織され、明治期以来の神殿建替工事は16年7月に始まったが、84万円(うち県費は3万円)の経費と十数万人の勤労奉仕に支えられて、18年10月「忠霊奉祀の一大殿堂」が完成した。神域も松栄山全域16町歩の広さとなり、幅4間の表参道がつけられた。遷座祭の日、これまでの5,815柱に加えて、中国戦線で戦死した647柱が新たに合祀されたが、終戦までに戦死者は激増し、最終的な合祀祭神数は4万4,436柱に達した。戦後、護国神社は消滅して 豊霊宮 と称していたが、27年講和条約発効により、再度大分県護国神社と改称した。昭和天皇の参拝を記念して銅板 葺(ぶき)となり、59年神門も完成した。
[末広 利人]
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