後藤碩田 ( ごとうせきでん)
二豊考古学の先覚者
1805−1882 江戸末期の学者、文化人。 国学 をはじめ考古学 詩 画 兵術 詠歌 茶香にまで通じた博学者として知られる。名は眞守、字を大化、通称を今四郎と称す。碩田はその号で、他に楽齋、耕雲主人、遊戯三昧室、仰見千古書屋、望三益堂、荻花、風葉楼、狂言日本一黍団子などの号を用いる。また著作には牧岡の姓を用いたものも多い。俳句では「大分」の称号を用いた。文化2年2月18日、父後藤守只(通称弥四郎、自牧齋または琴之と号す)と母京都の人春名某の女との間に生まれ、その生家は紀州徳川家、 岡藩 中川家 、 臼杵藩 稲葉家 、 熊本藩 細川家 、 島原藩 松平家 、 延岡藩 内藤家 など、諸侯の 御用達 を勤める大分郡乙津村( 幕府領 )の豪商で知られた。
〈碩田の学業〉
祖父守保は和歌を 嗜(たしな)み、父守只も歌や茶を嗜んだ風流人で知られた。寛政の三奇人で知られた 高山彦九郎 (1747−1793)の来訪は、その尊王論に共鳴した守只をして、碩田に尊王に従うよう遺訓させたという。こうした経過や後藤家の文化的環境が、のちに碩田の行動や学問を規定し、あるいは育むことになった。
まず幼年期に碩田は 日出(ひじ)藩 の 帆足 万里(ばんり) について 儒学 を学び、次いで 中津藩 の 渡辺 重名(しげな) や肥後の長瀬真幸から国学(皇学)を修めた。詩画にいたっては、 田能村 竹田(ちくでん) に師事し、のち 高橋 草坪(そうへい) 、 帆足 杏雨(きょうう) 、 田能村 直入(ちょくにゅう) とともに竹田の門下の「四天王」として知られる程の上達ぶりをみせた。また砲術を熊本藩の池田慶太、岩国藩の有坂淳蔵らに、射法を高木応心齋に学び、山鹿素水に兵法の伝授をうけるなど、軍学にも通じていった。さらには禅理茶香 挿花に至るまで習得したという。
〈尊攘運動へ〉
この多彩な就学経験と生涯にわたってその人なりを慕ったとされる高山彦九郎の影響もあって、碩田は次第に勤王活動へと傾斜していった。天保末年に京都へ赴いた碩田はその地にとどまること数年、有川宮、中山、千種などの公家と交わり尊王を唱え、嘉永6年(1853)浦賀に米艦が渡来すると、熊本藩の宮部鼎蔵 松村大成、岡藩の 小河(おごう)弥衛門 とともに 攘夷(じょうい)を唱えたという。当時小河にあてた書簡には、京都(皇居)を中心にした兵備の充実、西洋型軍艦の製造など、外圧に対する防御策が述べられ、文久年間(1861〜63)にはその意をしたためた建白書が京都に提出された。こうした彼の攘夷思想は高杉 晋作(しんさく)をはじめとする長州藩士らと共に攘夷について事を謀るまでになり、万延 元治(1860〜64)にかけて親しく書簡をかわし情報の交換を行った。さらに元治元年(1864)幕府の第一次長州征討に際し、三原久左衛門 藤井又兵衛の長州藩士が碩田宅を訪れて九州諸藩の情報探索を依頼し、それに応えて四方に人を派遣して協力した。この碩田の功に対して、のち毛利藩主から荒身短刀一口、金十両、菓子箱一折が与えられている。また豊後で尊王思想を広げるため、島精一郎、応当又三郎らをして府内藩の藩論の改革も図っている。こうした碩田の行動は、死後30年たった明治45年(1912)従五位の位が与えられ賞せられた。
〈碩田の著作〉
碩田の業績でひときわ光彩を放つのは、『 碩田叢史 』とよばれる膨大な史料の 編纂(へんさん) 収集である(その大部分は現在大分県立図書館に所蔵されており、目録にして295件をかぞえる)。それは、碩田が購入したものから、人に頼んで書き写したもの、さらに彼自らが書き写しまた著述したものなど、約600巻にも及ぶといわれている。内容は一般史誌、地方史誌、新道書、文学書、考古学書など、多種多様にわたるが、「 豊後国図田帳考證 」「 豊後国古蹟名寄帳 」「 豊後諸侍系図 」「 大分川流 」「 党民流説 」「 大友興廃記 」「 西治録 」など、その多くが今日の郷土研究には欠かせない重要な史料を提供している。なかでも『古事記』『日本書紀』『日本後記』『風土記』『万葉集』『続古今集』など多岐にわたる資料を駆使して古蹟や地名の考証を行った「豊後国古蹟名寄」は、碩田の豊かな学問の素養を余すことなく伝えたものといわれている。また『碩田叢書』に収められた「尚古延寿」(全5冊)は、豊後をはじめ各地の残る古物を詳細に模造或いは拓本にして所在や所見を付記したもので、実測をともなったその記録は、今日でも資料として充実した内容をもつといわれる。対象とされた古物のなかには考古資料も多く、郷土における考古学の先賢者としての評価も与えられている。その「尚古延寿」に収められたものを更に精選、編纂したものが「 大化帖 」(26件を収録、その名称は冒頭に所載した大化元年11月18日銘の 大行事八幡祠 蔵の狛犬木像にちなんだものとなっている)で、明治44年刊行されて一般に知られるところとなった。
[武富 雅宣]
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