御陵古墳 ( ごりょうこふん)
大分平野最大の前方後円墳
御陵古墳は、大分市大字木ノ上字原に所在している。 大分平野 の西南部にあり、 大分川 の支流である 七瀬(ななせ)川 を望む標高64mの 舌(ぜつ)状丘陵上に位置している。丘陵の一部は大分から竹田へ通じる国道によって切断され、またその後の住宅造成によって大きく 変貌(へんぼう)している。しかしこの丘陵上には、御陵古墳をはじめ5体以上の 人骨 が検出した 世利門(せりもん)古墳 、 凝灰岩(ぎょうかいがん) 製の 箱式 石棺(せっかん) より 捩文鏡(ねじもんきょう) を出土した 下ヶ迫古墳 をはじめ多くの 古墳 や 横穴墓 が分布し、大分平野では 賀来(かく)川 を望む 庄ノ原台地 とその周辺の古墳群と 対峙(たいじ)する関係にある。
〈開発によって消えた前方後円墳〉
『大分県史蹟名勝天然記念物調査報告 第16輯』(昭和16年)に収録されている「大分郡古墳調査一覧表」によると、御陵古墳は 木ノ上古墳 として登録され、「石棺を発掘したる跡あり、石棺の破片とみるべき緑泥片岩の小片を存す」と記されている。また、この古墳の近くにある 善妙寺の先代住職 菅原大石 が著した「清風明月」(昭和14年)には、「善妙寺より約一丁程西南の小高い山にみささぎと呼ぶ処がある。草木 鬱蒼(うっそう)として繁茂せる中に正面には古皇之御陵と大書し、向って右側面には享保十八丑歳、向って左側面には十二月朔日造立之と記せる古墳が鎮座ましましている」とある。その他にも、この古墳の 石棺 より太刀、玉類、 鉄剣(てっけん) 等の出土が伝えられており、これらから御陵古墳は明治40年ころと昭和10年ころの2回にわたって発掘されたことが伺える。さらに享保18年の石碑があることから、この時期に最初の発掘があったことも考えられる。このように御陵古墳は、早くから人々の注目する古墳であったが、昭和43年、分譲住宅建設によって消滅する運命となったのである。
〈大分平野最大の前方後円墳〉
「古墳が壊される」の連絡で、大分県教育委員会がかけつけた時は、すでに周辺の工事が進み保存を望む市民の声はとどかなかった。御陵古墳は、主軸を南北にとり前方部を南に開く。調査段階には、工事によって墳丘の一部が削りとられ旧状を大きく変えていたが、全長75m、後円部高9m、前方部高6mを測る 前方後円墳 であることが判明した。また、全体的な外形は狭長な前方部が形成された古式の様相を呈している。主体部は、大小2基の石棺が安置されていたが、記録や伝えのとおり石材のほとんどが抜きとられていた。しかし、規模は1号石棺が長さ1.8m、幅1.2m、2号石棺は長さ1.8m、幅80pを推定することが出来た。遺物は、これまで刀剣や玉類の出土が伝えられていたが、新たに1号石棺より硬玉製 匂玉(まがたま) 、碧玉製 管玉(くだたま) 、ガラス玉、 鉄鏃(てつぞく) を、2号石棺より硬玉製 棗(なつめ)玉、碧玉製管玉、鉄刀片、 (くや)片(なた)が発見された。さらに、いずれの棺か判明しないが三角板 革綴短甲(かわとじたんこう) の鉄板片と、墳丘からは 埴輪(はにわ) が発見された。このように、副装品は一部しか確認することが出来なかったが、墳丘の規模といい大分平野に君臨した豪族にふさわしい古墳である。
〈大分平野の前方後円墳〉
御陵古墳は、墳丘の形態や出土遺物から5世紀中ごろの年代が推定できる。大分平野における最初の古墳は、大分川流域よりむしろ 別府湾 に面した 三芳(みよし)の丘陵上に 亀甲山古墳 が出現した。石棺から舶載の 三角縁神獣鏡 が出土しており、4世紀後半の築造と考えられるが、古墳はすでに消滅しており、前方後円墳であったかどうか明らかではない。しかし、大分平野において ヤマト政権 といち早く関係をもった首長墓である。これにつづくのは、賀来川流域の庄ノ原台地に位置する 蓬来山(ほうらいさん)古墳 である。全長約60mの前方後円墳で、主体部は 安山(あんざん)岩 を用いた箱式石棺が確認されている。墳丘の形態や石棺が宇佐市 赤塚古墳 に類似することから、4世紀末から5世紀前半の年代が考えられる。そして5世紀中ごろには、七瀬川流域に御陵古墳が築造されるが、ほぼ同じころには 上野台地 東側先端部に 大臣塚古墳 が出現する。大臣塚古墳と御陵古墳の前後関係は明らかでないが、径50m近い円墳状の墳丘が残存し、前方後円墳であった可能性が強い。しかも、石棺より 甲冑(かっちゅう)、刀の出土が伝えられており、大分川下流域を拠点とした首長墓であろう。そして、これらの古墳の周辺には、彼らを盟主とあおぐ小首長の墳墓が分布しているが、前方後円墳はそれぞれの地域に1基づつしか存在しない。こうしたことから、大分平野では賀来川流域、七瀬川流域、大分川下流域をそれぞれ中心とした有力集団が対応し、大分平野における最高位の首長権はその三つの勢力から一世代ごとに交代で出されたのではなかろうか。そして、6世紀後半以後は賀来川流域が大分平野を支配し、『 国造本紀 』にみられる 大分国造(おおきだのくにのみやつこ) の本拠地となったようである。
参考文献 大分県教育委員会「御陵古墳緊急発掘調査」『大分県文化財調査報告』第24輯
[渋谷 忠章]
[ご]メニューに戻る