異国警固番役 ( いこくけいごばんやく)

蒙古襲来に備えた常時分番警備体制

  蒙古(もうこ)襲来 に備えて西国海岸を交替で勤番した警固役。山陽 南海道は長門国、出雲国は筑前黒崎地域を分担したが、九州に 所領(しょりょう)をもつ御家人が分担した筑前国博多湾が最も代表的。
〈要害警固命令と番役の制度〉
 鎌倉幕府は再三の蒙古の 牒状(ちょうじょう)に対し、来寇必至と認め、文永8年(1271)9月九州に所領をもつ御家人に対して下向 防禦(ぼうぎょ)を命令し、翌年2月東国御家人がその領地に到着するまで、九州定着御家人に肥前 筑前の要害警固を命じたのがはじまり。奉行人は 大友 頼泰(よりやす) 少弐覚恵(しょうにかくえ)( 資能(すけよし)) 両人であるが、この時の分番の制度は 明瞭(めいりょう)でなく、建治元年(1275)から定形化し、恒常的になった。警固番役を 勤仕(ごんじ)する九州御家人は、 大番(おおばん)役等を免除された。
〈番役制度の変遷〉
 文永12年(建治元年、1275)2月 鎮西(ちんぜい)奉行 少弐 経資(つねすけ) は、蒙古警固 結番(けちばん)として1年を4つに分け、九州九か国御家人を配当して分番を令した。その分担は次の通りである。
 番役の勤務の仕方は必ずしも明瞭ではない。豊後国の例では、守護大友頼泰は「7月1日より同月 晦日(みそか)に至り、一番衆の内」として勤番せよと、玖珠郡御家人 野上 資直(すけなお) に伝達している。つまり秋3か月分担国内では、1か月単位で3番に分け、一番衆 二番衆 三番衆に区分し、「三番かへりに」勤務させている。なお、「筑後国守護所辺」に向かえと記されているが、ここが集結地であったものか、当時の警固地の割り当ては不明である。長番にすると差し支えの起こる可能性があるので1か月単位にしたが、自身重病等の場合は 起請文(きしょうもん)(神仏に対する誓約書)をつけて届け、軽快の時は子息を代官に立てよ。非番の者も敵襲来の際は直ちに馳向うべし、と命令している。勤務終了者には 守護 が 覆勘状(ふくかんじょう)(勤務終了の請取)を渡した。この1年4期分割制度はその後変更されたものか、事実は表の通りになっていない場合が多い。おそらく間もなく別の制度が実施されたものであろう(相田二郎『蒙古襲来の研究』)。
〈異国出兵の計画〉
 警固番役の発令とほとんど同じ建治元年12月ころ、幕府は蒙古の前進基地となっている高麗の港湾を覆滅する計画を立て、その総指揮官は少弐経資、根拠地は博多を指定した。まず九州諸国の兵員 船員( 梶取(かじとり) 水手(かこ))で遠征軍を組織し、不足の時は山陰 山陽 南海の諸国から徴発する計画で、国々の守護にも兵員 船員の準備を命じた。豊後では大友頼泰が玖珠郡野上資直に対し、各人の所領面積 領内大小船の数 櫓(ろ)数 水手 梶取の名前と年齢の報告、来月中旬に船 船員等を博多湾に 廻漕(かいそう)する準備をする事、及び出撃の兵数 年令 武具等の報告を命じた(「 野上文書 」)。「 杵築 生桑寺(いくわじ)文書 」にも、 八坂(やさか)荘 に割り付けた船舶を博多に廻漕させている。肥後国御家人の 請文(うけぶみ)(承諾 請書(うけしょ))は「石清水文書」の「御神宝記裏文書」で有名。しかしこの計画は中止されたらしい。その後弘安4年(1281)再度発令されたが、これも結末は不明である。
〈博多石築地構築と警固番役〉
 建治2年はじめころ幕府は博多湾岸に 石築地(いしついじ) を築造する計画を立て、異国出兵者は免除し、在国御家人に負担させることとした。その文書上の初見は、同年3月10日である(「 深江文書 」)。石築地役は所領の面積1反あて1寸の割合。石築地役の場所が警固番役の場所となる原則からすれば、博多(筑前 筑後)、青木横浜(今宿村)(豊前)、博多後に 姪浜(めいのはま)(肥前)、 生松原(いきのまつばら)(肥後)、 今津(いまづ)後浜(日向 大隅)、箱崎(薩摩)となり、豊後のみ不明であったが、「杵築生桑寺文書」で 香椎(かしい)前浜(豊後)であることが判明。建治元年の制で固定していなかった各国の勤仕場所が、石築地構築によって固定し、番役や修復等は幕府存続中半永久的に励行せられた。勤仕方法は大隅 薩摩は1年を4期に分け、1人が3か月連続勤仕、肥前は1年間に1か月あて4回(のち2か月勤務)等まちまちで遠隔地の1回勤務期間が長いのは、長途出向の 煩(わずらい)を考慮したためか。しかしこの制度も嘉元2年(1304)になって廃止され、9国を5番に割り振って、各番1年間分担制に変わった(「 中村文書 」)。1番筑前国、2番大隅 薩摩国、4番肥前国が判明し、他は未詳。1年間勤務であるが、5年に1度で、御家人の負担軽減をはかったものである。半永久的な番役は御家人を疲弊させ、女子に対する所領譲与禁止等、九国御家人に重大な影響を与えた。
 参考文献 相田二郎『蒙古襲来の研究』
[渡辺 澄夫]

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