災害 ( さいがい)
豊後水道はかつては台風銀座
我が国は、アジアの一角を占める地勢的条件や気象風土の関係上、古来、 風水害 旱魃(かんばつ) 地震 火災 などの災害が絶えず、これらによる死傷者および財産上の損害は莫大なものがあった。戦後、昭和36年(1961)に制定された「災害対策基本法」(法第223号)では、非常災害として水害 暴風 豪雨 豪雪 高潮 地震 津波 大規模火災 爆発を摘示している(第2条)。
大分県における明治当初から昭和20年 終戦 の時期までの災害の記録を見ると、その件数は合計277件、このうち暴風雨(豪雨を含む)は143件で52%と過半数を占め、統計的には1年に1.9回の割で県域を襲ったことになる。火災の72件(26%)がこれに次ぎ、以下地震の18件、旱魃13件、豪雪10件、その他の順となっている(大分県『災害記録』)。災害の規模や被害の程度など客観的な基準を全国的に定めた上での統計資料ではないにしても、本県での災害の発生状況を知る上で参考となり得るであろう。
〈戦前の火難と水難と〉
明治5年(1872)2月、県治に着手した 森下 景端(かげなお) 参事(初代 県令 )は、県に4課を置いた。「人民変死、路頭老人」などとともに「火災」の所管は聴訟課、また「豊凶検査及ヒ凶年予備」は租税課であった。明治期(11〜45年)県下の火災発生件数は年平均386回、この間「大火」はおよそ10回である(『大分県警察史』)。消防組織の嚆矢は同年3月、府内町(同8年より大分町)に布かれた「火防仮規則」により、東新町を1組とする東8組と竹町など西8組で編成する府内消火組合である。県域の消防組合は、同15年100組(組合員数6,756人)が大正末年には347組合(1,333支部、同5万6,660人)にまで発展をみたが、県下の火災件数は一向に減じなかった。この火難以上に県民を苦しめたのが水難である。凶荒罹災農民に対しては、県治条例中に「窮民一時救助規則」があったが、当時、地価100分の2の定率地租制には豊凶による増減が顧慮されなかったため、農民は塗炭の苦をなめた。同年5月末、罹災 済貧救恤の資金として広瀬貞義ら75人が「出金三千円」を拠出し、県官を感激させた(『県治概略』)。同7年の置米金支出による罹災救助金はわずかに961円32銭8厘、こうした状況のため「凶荒ノ 如(ごと)キハ即チ天地ノ生シタル傷害ニシテ、之ヲ防備スルハ 亦(また)政府ノ職務ナリ」(大蔵卿大隈重信「建白書」)として公布されたのが同13年の「備荒 儲(ちょ)(貯)蓄法」である。水難に対し旱天の被害もまた甚大で、藩政以来、旱害地域では「 溜池(ためいけ)築造」でこれに対処してきた。ちなみに、その数は東西国東郡で541を数えている(大分大学教育学部『国東半島』)。
本県の戦前における、記録に残る大型 台風 の概要を主に以下に摘記してみる。
【明治26年の大雨台風】明治26年10月13〜15日の風水害は典型的な豪雨型。県下の各河川、特に 大野川 大分川 山国川 流域の被害がひどく、総雨量は404.6o。県では皇后より下賜の 救恤(きゅうじゅつ)金や有志 義捐(ぎえん)金、県費(備荒貯蓄金1万8,586円)を各郡 市町村に配布。また、災害対策の土木費の急増は教育費 勧業費 衛生費を圧迫し、県(郡) 市町村とも「財政 頗(すこぶ)る困難」となる(同29年『大分県水害史全』)。県下の被害は死者280人、負傷者97人、流失(倒壊)家屋6,044戸、浸水家屋1万5,334戸、被害農地など4,900haなど。
【大正7年の台風】大正7年(1918)7月10日、早朝から降り出した雨は「車軸をも流す大土砂降り」で「何物をも洗い流さずんば止まず」の勢い(『 大分新聞 』)。大分測候所の観測では、総雨量は493.4o、実に「1坪当り4石8斗1升」で当測候所開所以来の記録。県域での被害総額は当時、破格の約50億円。
【昭和8年― 屋島丸台風 】昭和8年(1933)10月20日午前4時ごろ、台風の針路は豊後水道を北東に進み、四国地方を経て近畿地方に 未曾有(みぞう)の被害をもたらす。大阪商船 屋島丸(946t)が神戸市須磨海岸沖合で深夜に沈没し、乗客122人中、66人が水死。この中には県関係者もいて「海難の恐怖」を県民に強く印象づけた。
【第二次世界大戦下の台風―昭和16 18年】昭和16年(1941)10月1〜2日の台風(4125号)は中心気圧960mb、半径500kmの超大型。10月1日早朝に鹿児島湾上陸、九州を縦断して2日午前3時過ぎ大分市を通過。県北部の国東地区では400mmを超す豪雨となり、 安岐(あき)川 の 氾濫(はんらん)で国東線安岐鉄橋が流失。大分駅では、 豊肥線 上り510列車が竹中駅手前の河原内川鉄橋にさしかかった午前10時40分ごろ、機関車もろとも前3両が瞬時に濁流中に水没し、死者 行方不明44人、負傷者72人を出す大惨事が発生。下校中の 大分中学校 (現 上野丘高校 )生徒16名もいて県民の涙をさそった。続いて同18年9月にも、これに劣らぬ大型台風が県下を直撃。超大型の雨台風は県南部を中心に600mmの豪雨、なかでも佐賀関では日雨量818mmの大記録を樹立し、死者 行方不明者約300人を出した。
[大野 保治]
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