佐伯惟教 ( さいきこれのり)

大友家最後の大神姓加判衆

 ?−1578 戦国時代末期の武将。 大神(おおが)姓佐伯氏12代。父は「 大神姓佐伯氏系図 」では11代 惟常(これつね) の子紀伊守 惟益(これます) 、『 豊後国志(ぶんごこくし) 』では惟常とする。童名等不詳。紀伊介 紀伊守。天正5年(1577) 剃髪(ていはつ)して麟与軒宗天と名乗る。天正6年 日向高城合戦 で戦死。法名は指館前紀州大守龍徳宗天大禅定門。
〈惟教の登場〉
 佐伯氏は 祖母嶽大明神(そぼだけだいみょうじん) を祖とする 豊後大神姓 の一族で、その初代は三郎 惟康(これやす) とも三郎 惟高(これたか) とも 緒方三郎 惟栄(これよし) ともいわれ、詳細は不明である。この佐伯氏が大友家中でどのように処遇されているかをみると、年始の主従の挨拶という行為の中にあって、佐伯氏に限っては、宿老と呼ばれる重臣たちが見守る中での 盃事(はいじ)、その返礼のため大友宗家が佐伯氏の旅宿に出向く、という例のように破格のものであった。12代惟教の初見は、天文19年(1550)の大友 二階崩れの変 にかかわる「 大友興廃記 」の記述中で、裏付け史料はない。史料的には弘治2年(1556)発生した 姓氏対立事件 が初見である。事件は、 大友 義鎮(よししげ) の実弟で大内家の家督となった 義長(よしなが) と、 毛利 元就(もとなり) の対立という山口での混乱、それに連動した豊前の動乱に乗じて、大友家内部で発言力が劣勢となりつつある 他姓衆 の巻きかえしという構図である。中心人物は大分郡 阿南(あなん)荘 を 本貫(ほんがん)地とする肥後 方分(ほうぶん) 小原鑑元(おばらあきもと) 、 本庄(ほんじょう)新左衛門尉 中村新兵衛尉 長直(ながなお) らで、惟教は直接関与していない。
〈惟教の豊後退去〉
 弘治2年5月20日付けで 三庄氏 にあてた大友家年寄衆連署書状によると、小原 本庄 中村らの謀議が露見したので成敗したが、連絡を取り合っていた惟教は退去してしまった。きびしく追求しているが、惟教は必ず三庄氏領に向かうと思われるので討ち取ってほしいとある。また、宣教師たちは反乱を「国王は謀反の大身数人を殺さしめ、己は安全に之が対策をなすため、城の 如(ごと)き島に逃れたり」「大身等国王に叛起し、之を殺して他の王を立てんと図りしが」「我等は豊後の港と誤りて豊後の王に叛起せる大身の領地(佐伯)に着きしが」「豊後の王は火と武器を以て叛逆の嫌疑ある大身等を攻め、13人の大身の家を焼き、家族及び家臣を滅したり」と報告している。『 大友家文書録 』は、「この年、佐伯惟教義鎮を恨むことあり、 男(むすこ) 惟真(これざね) 等氏族家人を率い、 栂牟礼(とがむれ) 城を去り、退きて伊予国に住す」と説明している。惟教の四国退去は津久見市「 薬師寺文書 」によって裏付けられる。
〈惟教の豊後帰参〉
 永禄11年(1568)、筑前 立花城 主 立花 鑑載(あきのり(とし))が毛利元就と通じて 宗麟(そうりん) に反した。「 大友興廃記 」は、10月毛利元就が立花城を攻略するという情報を入手した惟教は、宗麟に対する恨みを捨てて参戦しようとし、翌12年3月下旬 佐賀関 に上陸したあと、 飛騨(ひだ)宮内を筑前の宗麟本陣に派遣して 臼杵 鑑速(あきはや) に取りなしを頼み、許しを得て12月27日に栂牟礼城に入ったと説明している。『大友家文書録』は「この年、佐伯惟教予州より豊後へ来たり、また仕えんことを望み請う。宗麟これを赦し、州の 鳥帽子岳(えぼしだけ)城 (佐賀関町)を守らしむ」と説明している。「薬師寺文書」によると、惟教は帰参に当たって薬師寺右衛門尉 同新三郎を仲介として大身2名と交渉した様子がかわる。大身2名は臼杵鑑速 浦上宗鉄(うらがみそうてつ) と考えられる。
〈大友家最後の大神姓 加判衆(かばんしゅう)〉
 帰参を許された惟教は、間もなく家老として政権中枢部に関与するようになる。これによっても佐伯氏の豊後に占める価値が証明される。 加判衆 として署名している史料は20点ほど確認できるが、 日下(にっか)に署判する一例を除き、他は全て最後に署判している。官途は天正元年(1573)を境に紀伊介から紀伊守にかわる。元亀3年(1572)ころ伊予の 西園寺公広(さいおんじきみひろ) と土佐の 一条兼定(いちじょうかねさだ) の反目に当たっては、宗麟の娘婿兼定救援に赴いて公広を攻略するなど 大友水軍 の将として活躍している。特に史上名を馳せるのは日向との関係である。その背景には佐伯氏と 土持(つちもち)氏の姻籍関係の深さがある。日向国の大半を支配していた 伊東氏 は、 島津氏 との勢力争いに敗れ、天正6年大友氏を頼って豊後に入った。この時点で今まで大友氏に臣従していた土持氏は島津の 麾下(きか)に入った。惟教入道宗天は、直ちに日知屋 門川 塩見三城主に対し、団結して島津氏に当たる覚悟があるなら援軍の派遣の用意がある旨を伝えている。また、 土持 親成(ちかなり) の真意を 糾(ただ)すため使者を派遣している。宗麟 義統(よしむね) 父子は伊東氏の旧領回復を名目に侵攻を開始した。春の侵攻では宗天を先鋒に大勝するが、宗麟自身が 務志賀(むしか) にキリスト教的理想国家建設を目的とした秋の侵攻では、壊滅的大敗を 蒙(こうむ)った。無統制のまま開始された高城攻めは、数日来の豪雨による増水中という悪条件が重なり、宗天 惟真以下多数の死者を出して終結した。
 参考文献 『津久見市誌』 『佐伯市史』 橋本操六「大神姓佐伯氏と豊後佐伯」(『佐伯氏一族の興亡』)
[橋本 操六]

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