佐伯惟治の乱 ( さいきこれはるのらん)

魔法を使った蛇神の子孫

 大永6年(1526)12月から翌7年11月、佐伯惟治が 大友 義鑑(よしあき) に対して起こした反乱。主として 栂牟礼(とがむれ)城 (標高223m 佐伯市と弥生町の境にある山岳)を中心として戦われた。翌7年11月、惟治は 臼杵 長景(ながかげ) らに攻められて自刃した。
〈乱の原因〉
 佐伯氏は 大神惟基(おおがのこれもと) の子 惟盛(これもり) の曽孫 惟康(これやす) を氏祖とする。大友治世下では最大の大神一族であった。惟治は佐伯氏10代という。明応4〜大永7年(1495〜1527)の大友氏の武将。 佐伯 惟世(これ) の子。佐伯栂牟礼城主。二郎と称する。官途名は薩摩守。法名は 正徹(しょうてつ)大禅定門。享年33歳。「 栂牟礼実録 」に惟治は僧 春好(しゅんこう) を 寵愛(ちょうあい)して魔法を行い、領民を苦しめ、家臣の 諫言(かんげん)を聞かなかった。大友家に対して 勤仕(ごんじ)を怠り、佐伯氏と大友氏を同格と心得、嫡子千代鶴を御曹子と号する。また、謀反を志し、その願望達成のため神社仏閣を建立していると讒言された。惟治は義鑑のもとに家臣を派遣して弁明しようとしたが容れられず、義鑑はこれを 斬殺(ざんさつ)した。つまり、 讒言(ざんげん)説である。これに対して、『 史料綜覧 』は、惟治が肥後国の 菊池 義武(よしたけ) ( 義宗(よしむね) 義国(よしくに) 重治(しげはる) ともいう)と通じて大友義鑑に背いたので、臼杵長景に命じて攻めさせた。長景はいつわって惟治と和し、自殺させたと述べて、讒言説を退けている。菊池義武は 大友 義長(よしなが) の子で、義鑑の弟である。「 菊池氏系図 」によれば、永正17年(1520)、菊池家を継いで守護となった。終生、大友 惣領(そうりょう) 家に敵対し、天文23年(1554)、 甥(おい) 大友 義鎮(よししげ) によって自殺させられた人物である。大永6年12月、惟治は肥後菊池義武や筑後 星野 親忠(ちかただ) と通じて、豊後 府内 を攻めようとしたが露見し、義鑑自らは義武を攻め、 戸次親連(べっきちかつら) らには筑後星野氏を、臼杵長景らには栂牟礼城に 拠(よ)る惟治を攻めさせた。今日、義鑑の肥後 筑後攻めに関する確実な史料に欠ける。しかし、肥筑両地方は「 大友義長条々 」に 星野 興泰(おきやす) やその兄弟子孫を許容してはならないといい、肥後国支配には堅固の覚悟が必要であるというほど、大友氏に対して反逆的状況下にあった。また、この方面の鎮定のくさびとして入嗣させた義武が、暴戻で国政につとめず、兄義鑑に服従しなかったことは事実らしい。佐伯惟治がこれらの肥後勢力と結んで大友惣領家に謀反を起こす可能性は高い。惟治の乱の原因について、佐伯家督問題説が提唱されている(『大分県史』中世篇V)。佐伯氏は惟世のあと、惟治 千代鶴系と惟安 惟常系が対立する。惟治の乱によって惟治 千代鶴系が打倒されたあと、 惟安(これやす) 惟常(これつね) 系が家督を相続する。事実、惟治の跡職は惟常に 安堵(あんど)されている。大友義鑑は佐伯氏内部の家督相続争いに乗じて、巨大化する同氏の勢力抑制を図るために、惟治を 誅伐(ちゅうばつ)したのではないかとする。惟治の乱のあと、大友家内部では、 氏姓遺恨事件 という大友家 同紋衆 と 他紋衆 の争いが起こる。義鑑の治世の半ばころには、領国統治にとって、不安定な状況があった。他姓の雄佐伯惟治討伐は、大友氏の政権安定をもたらすためのもとに起こされた事件といえよう。
〈乱の経過と結果〉
 臼杵長景の率いる攻撃軍は1万とも2万ともいう。確実に立証できる史料によると、栂牟礼城攻めは、大永7年11月13日から16日までの間に行われている。直入郡の武士 田北親員(たぎたちかかず) が 田北 鑑生(あきなり) らと同陣して奮戦。鑑生は速見郡 山香(やまが)郷 の武士を率いて栂牟礼城攻撃に当たった。 緒方荘 の武士である 久保中務丞 もこの合戦に出陣し、負傷した。栂牟礼城が難攻不落の城であったため、攻めあぐんだ臼杵長景は惟治に対して、一旦、日向に退き、時期をみて大友義鑑に申し開きするように説得し、下城させたという。日向へ落ちのびる惟治を新名 浜子氏が追討し、日向三河内で自殺させた。惟治の子千代鶴も佐伯堅田において自害して果てたと伝える。乱後も、徹底的な掃討作戦が行われる。惟治の家臣が大野郡の山中に潜んでいる可能性もあり、義鑑は、翌8年正月、大野郡緒方荘の武士たちに残党狩りを命じた。享禄元年(1528)11月から12月にかけて、義鑑は 斎藤五郎兵衛尉 一万田(いちまんだ)与十郎 へ 宇目(うめ)村 のうち15貫文を、 吉岡左衛門尉 には同村のうち5貫分を給与している。佐伯惟治の領地を 闕所(けっしょ)として、戦功のある武士に与えたのではないかと推定される。旧領処分の全貌は不詳である。本領佐伯荘は臼杵長景に、栂牟礼城は佐伯惟常に与えられたという。
〈富尾神の祭祀〉
 大永中に重岡大原(宇目町)に創建された 富尾(とみお)神社 は、佐伯惟治父子の霊を祭る。惟治が怨霊となって 災厄(さいやく)をもたらしたからであるという。慶長中、 宇目(うめ)郷 千束(せんぞく)(宇目町)に移された(『 豊後国志(ぶんごこくし) 』)。別に富尾神の神体は蛇であるという伝承もある。佐伯惟治が蛇神を祖と伝える大神氏の 末裔(まつえい)であり、その存在が領民に大きな影響を与えていたことを示すものであろう。
[芦刈 政治]

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