佐伯城 ( さいきじょう)

今も残る三の丸櫓門

〈新しい城の建築〉
 佐伯市佐伯、通称鶴谷城山にある。別名、 鶴屋城 鶴ヶ城 ともいう。 番匠(ばんじょう)川 の下流左岸の 八幡山 (現在城跡の残る城山)の山頂および山麓部に位置する 平山城 である。城の建築は初代藩主 毛利 高政(たかまさ) が慶長6年(1601)佐伯に入部した直後から始まった。高政は、それまで 佐伯荘 の中心であった 栂牟礼(とがむれ)城 (弥生町)が 山城(やまじろ) であり、地理的にも領内の経営に不向きであったので新たな居城の建設を考えたのだという。そうした理由から選ばれたのが、八幡山であった。この地は、番匠川の川沿いであり 佐伯湾 にも近く水上交通に便利であり、また防衛上の観点からも要害の地といえるものであった。工事期間は史料によってまちまちである。 佐伯藩 家老であった 関谷長熈(せきやながひろ) がまとめ9代藩主 高誠(たかのぶ) に献上した「 温故知新録 」によれば慶長9年着工、同11年完工としている。また別の史料によると同7年着工、同9年完工としているものもある(「佐伯茶飲話」)。『佐伯市史』には同7年着工、同11年完工と記述されている。その形は、はぼ南北に鳥が翼を広げた形状を呈しており、鶴が舞う姿に似ていることから鶴屋城 鶴ヶ城と呼ばれていたという。中央やや北よりに本丸 天守台があり、その南に二の丸 西の丸、北に北の丸があった。城の台地形は、長さ89間 幅10〜13間、天守台石垣は7間半〜8間半であった(「温故知新録」)。山頂部に構築されたこれらの城郭を当時は山城と呼んでいたという。そして、初代高政 2代 高成(たかなり) の時代(慶長6年〜寛永5)には、この山城と呼ばれる所を藩庁としていたが、なにぶんにも山頂に位置することから、交通の不便などの不都合が生じ、寛永14年(1637)に山麓部に三の丸を構築し、以後ここを藩庁としたという。しかし、『大分県史近世篇T』では、「 佐伯藩政史料 」の検討を通じて、築城当時から山頂には三層の天守をもつ本丸を中心に二の丸、北の三の丸、丹波丸が作られていたとしている。つまり、三の丸はすでにあったとしている。そのとき同時に山麓にも屋敷が置かれていたのだという。そして山頂の城郭を山城と呼んでいたのに対し、山麓の屋敷が下屋敷と呼ばれていたとしている。下屋敷のあった場所は現在の佐伯市立文化会館の位置であったと推定している。すなわち、寛永年間(1624〜43)に藩庁機能が先に述べたような理由から下屋敷に移された結果、城郭の一部として下屋敷を三の丸に含めて呼ぶようになったのであろうとしている。いずれにせよ、以後は山麓部の三の丸と呼ばれる所が藩庁として機能することとなった。また、馬場もその後山麓部に設けられたという。佐伯城は宝永6年(1709)荒れるままにまかせていた山頂部の山城の修復にとりかかる。この工事は享保13年(1728)までかかったという。その際、天守閣は再建されなかった。さらに、安永6年(1777)になると山麓部の城内に 藩校 の 四校堂(しこうどう) が設けられた。そして、明治期になり廃城となっている。現在、山頂の山城といわれていた所は石垣のみを残すだけであるが、公園として市民の憩いの場として開放されている。
〈三の丸 櫓門(やぐらもん)の構造〉
 佐伯市立文化会館の入り口には、「 三の丸櫓門 」(県指定有形文化財)が残っている。この櫓門は「黒門」とも呼ばれるもので、佐伯城の遺構としては唯一残っているものである。この櫓門に釘付けされている「櫓門の記」という板書によると、寛永14年に創建され、享保11年に再建されたとある。つまり、藩庁として山麓の三の丸が機能し始めたときに創建され、山頂部の山城修復工事の一環として再建されたということであろう。さらには天保3年(1832)、11代藩主 高泰(たかやす) の時代にも手が加えられている。現在の門はこのときの姿をとどめるものだとされている。門の下層は石垣に切り開けた3間1戸片潜戸付きの門で、上層は櫓で 入母屋造本瓦葺(いりもやづくりほんかわらぶき)、前後に 庇(ひさし)屋根付、白壁塗込めで中段より下は簓子下見墨塗りとされていて、正面と背面には、それぞれ格子窓が付けられ、両側面には出入り口が付けられていて、前後の庇は石落としの形を残すものである(『大分県史』美術篇)。この櫓門からは膨大な量の藩政時代の貴重な史料が発見されている。その史料は「佐伯藩政史料」として佐伯市の手によってまとめられている。
[一法師 英昭]

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