佐伯城下町 ( さいきじょうかまち)

塩屋千軒から両町へ

〈城下町の建設〉
 慶長6年(1601)佐伯に入部した 毛利 高政(たかまさ) は、最初 栂牟礼(とがむれ)城 (弥生町)に 拠(よ)ったが、領内経営の不便さから、新たな城を築くことを決心した。その場所として選ばれたのが 八幡山 ( 城山(しろやま) )である。築城と同時に、その山麓に広がるデルタ地帯に城下町の建設が進められていった。そこは 塩屋村 と呼ばれた地域で、古くは製塩が盛んに行われ、「塩屋千軒」と称されていて、塩屋村の由来もそこにあるという。新しい城下町の建設は栂牟礼城の城下町を移すことから始まった。それは 古市町 と名付けられ城下町建築の起点となった。周辺部は 干潟 が埋め立てられ、 横町 大工町 中町 といった町がつぎつぎと作られていった。こうした町はその後、内町と 船頭町 の二つに整理される。その結果、城のすぐ東に 武家町 、その東に 内町 、南の 番匠(ばんじょう)川 沿いに船頭町という体裁の城下町ができあがる。その時期は延宝年間(1673〜80)であったという。内町と船頭町とはあわせて 両町 と称せられ、藩の行政単位の一つであった。その後も城下町の整備は続けられ、享保9年(1724)には、東限を 潮谷寺 大日寺 付近の堀、西限を角石の木戸、南限を船頭町札場、北限を 養賢寺(ようけんじ) 前の木戸とする区画が定められた。城下には道路が東西南北にはしり、防備のため互い違いの交差点やL字路も設けられていた。18世紀に入ると両町は、藩が町火消しや番所を設け、 瓦葺(かわらぶき)の屋根や土蔵造りを奨励して 火災 の防止に努めたにもかかわらず、たびたび火災の被害を受けている。しかし、こうした火災は町の整備のきっかけともなった。内町では宝永元年(1704)の火災を機に新たな町作りが始まり、享和3年(1803)には、町を構成する5つの小路(町)にそれぞれ上中町 上古市町 上中島町 横町 土井町と名が付けられ整備されている。同じように船頭町でも明和元年(1764)、同7年の火災を経て、安永2年(1773)に町を構成する5つの小路(町)にそれぞれ 住吉町 戎(えびす)町 中野町 鍛冶(かじ)町 浜町 といった名が付けられ、町割りが完成した。その結果、もともと船頭 水夫(かこ)が集まり住んでいた町で、城下町の拡大とともに船頭 水夫の屋敷と町家が入りまじり混雑していた状態が整備された。さらに住吉町は拡大を続け、享和3年には武家町を構成する町に下住吉町、船頭町を構成する町に上住吉町としてでてきている(「仮名付帳」)。他にも、武家町を構成する町に、下中町 下古市町 下中島町など内町と共通の町名がでてくることから、火災を契機に町作りを進めた結果、町家が武士の住む地域までも進出していったことが推測される。
〈城下町の商業と町人支配〉
 両町を中心とする城下町には、文化7年(1810)の人口調査によると両町で219戸、1,004人。これに藩士339戸、1,762人を加えた約2,700余りの人々が生活していた。また、文政9年(1826)の商家の数は 129軒であった(『佐伯市史』)。このように両町では半数以上が 屋号 を持つ商家であり、藩の商業の中心地であった。藩では「請(受)所」を城下の商人に命じ、商業の統制を行っていこうとしている。「 請所(うけしょ) 」とは座ともいい、 運上(うんじょう)銀 (営業税の一種)を納める見返りに、一定期間販売の独占権を与えられるものであった。はじめ、請所は必ずしも城下町の商人とは限らなかったが18世紀以降、城下町商人が独占していった。城下町商人の請所の早い例として元禄8年(1695)に「わく屋新八」が塩の請所を開いている。また油請所が同13年内町(中町)の商人に運上銀年1枚で、 享保9年には両町で内町2名 船頭町2名に許可された。その後も藩は内町1名 船頭町2名に、文化3年(1806)には 安土屋 に運上銀64匁で許可している。こうした藩の中心地である城下への出入りは城下入口番所と呼ばれる、陸路では 角石(かくいし)(佐伯市西谷)、海路では 鼻面(はなづら)(佐伯市番所の鼻、番匠川河口右岸)、松ヶ鼻(佐伯市蟹田区、 佐伯税務署 付近)、中江(佐伯市長島、 渡町台小学校 付近)中野(佐伯市臼坪、城山の北)の計5か所で厳しく監視された。両町に住む町人たちは藩が有力町人の中から任命する 町代(ちょうだい) (町政の責任者)によって支配された。町代は正徳3年(1713)に町年寄と改称され、享保8年に船頭町に2名置かれてから、内町の2名と合わせ4名となった。天明3年(1783)にはそれぞれ2名ずつ増え、4名が輪番で毎年1名町年寄を勤めたが、病気など不測の事態に備え5年後には毎年2名ずつに改められた。町年寄には地目付という補佐役が置かれた。町年寄には享保18年から城村の田地(年貢 夫役(ぶやく)の免除)が与えられた。町人たちは、木綿の着用や他領との縁組の届け出を義務づけられた。宝永4年には両町に来て日雇い稼ぎをするときには、領内外を問わず町代に届け出て日雇札をもらい、かつ年銀1枚の運上銀を支払わなければならなかった。
 参考文献 『角川地名大辞典』44 大分県(角川書店)
[一法師 英昭]

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