佐伯荘 ( さいきのしょう)
前身は戸穴荘か
〈佐伯荘の初見〉
弘安8年(1285)10月、豊後国の水田の面積と管理者などが幕府に報告された。これが「 豊後国 図田帳(ずでんちょう) 」あるいは「 豊後国 田代注進状案(たしろちゅうしんじょうあん) 」と呼ばれる 大田文(おおたぶみ) である。この中にみえる海部郡佐伯荘が佐伯荘の初見である。脱落や錯簡の少ない注進状案によってみると、海部郡831町は、 臼杵荘 200町、 丹生(にゅう)荘 150町、佐伯荘180町、国領 佐賀郷 150町、 佐賀関 11町、国領 大佐井(おおざい)郷 50町、国領 小佐井(こざい)郷 70町、国領 柴山村 10町、 毛井(けい)村 10町とみえ、佐伯荘は海部郡の21%を占めている。これらの荘郷のうち、さらに小さく分割され領有されているのが佐伯荘である。注進状によって示すと次のとおりである。( )は図田帳。
佐伯荘180町 領家毛利判官代、同弥三郎殿
(領家毛利判官代孫四郎殿、地頭職大友
兵庫入道殿)
本荘120町 地頭御家人佐伯弥四郎政直法名道精
(地頭御家人佐伯弥四郎政直法名道清)
堅田村60町内 15町領家(領家)
30町佐伯八郎惟資法名道法
( 同 上 )
7町1反 堅田左衛門三郎惟光
(堅田左衛門次郎惟光)
7町1反 忠左衛門次郎惟永後家
( 脱 落 )
4反 小田原次郎重直法名道仏
( 同 上 )
内訳合計4反の不足となるが、脱落かもしれない。
〈領家職の検討〉
領主として荘園から収納することのできる経済的な権利、すなわち領家職について『佐伯市史』は、「鎌倉幕府の黒幕 大江広元(おおえのひろもと)の子 左近将監(さこんのしょうげん) 毛利 季光(すえみつ) の孫 時親(ときちか) といわれている。同孫四郎は時親の子弟か、有力な一族で有ろう」と推定している。その理由は、「 緒方 惟栄(これよし) の遺領として 佐伯氏 に継承された佐伯荘は、鎌倉幕府の権勢家、公家出身の大江氏に寄進され、これを領家として大江 中原氏の縁族である大友氏がその地頭職となり、名主の地位にあった佐伯氏が地頭御家人として荘内の実権を握った」とする。理由付けは興味ある内容となっているが、「権門荘領」としての佐伯荘に下級公家がかかわるはずがなく納得できない。渡辺澄夫は『大分県史』で、「佐伯荘の領家毛利判官代は今なお比定が困難である。領家 職(しき)とあるのは判官代には相応せず、おそらく 預所(あずかりどころ)かと推定され、別に本家職があるはずである。既述の所がすべて摂関家ないし藤原一門領であってみれば、当荘もそれかと推定されるが、今後の研究課題としなければならない」と、現時点での研究の限界を述べている。
〈地頭職の検討〉
佐伯荘180町の地頭に「図田帳」は 大友 頼泰(よりやす) をあげている。「図田帳」は、注進状案として成立し、弘安以後利用され改変が加えられ再成されたものとする研究からすれば、佐伯荘地頭職が 角違一揆(かくちがいいっき) 中に恩賞として与えられた貞和2年(1346)5月以降、永和元年(1375)9月再度角違一揆中に佐伯荘地頭職が与えられた約30年間の間に、大友宗家が地頭職を帯していた可能性もあることから、それに起因するとも考えられる。次に、本荘120町の地頭は 佐伯 政直(まさなお) となっている。佐伯氏系図では5代 惟直(これなお) に相当すると注記している。また、 堅田(かただ)村 内30町の地頭 佐伯八郎 惟資(これすけ) についても佐伯氏系図は 惟直(これなお) の弟 惟助(これすけ) とし、その旨を注記している。 惟光(これみつ) は佐伯氏系図にも惟光とみえ、惟永も同様である。一見 惣(そう)地頭 大友頼泰の下に 小(こ)地頭 佐伯氏がいるようにも考えられるが、小地頭は惣地頭から 補任(ぶにん)されるという関係が豊後国内で確認されていない点からすれば、今後の検討課題とせざるを得ない。
〈前身は 戸穴(ひあな)荘か〉
安元2年(1176)2月の「八条院領目録」に、智恵光院御荘として「豊後国戸穴」がみえ、嘉元4年(1306)の「昭慶門院御領目録」にもやはり智恵光院領として「豊後国宗覚戸穴荘 別当局 」がみえる。学界では 戸次へ,つぎ 荘 の誤りとしているが、戸次荘は九条家領が明白であることから、戸穴荘は改めて検討されなければならないことになる。佐伯市内には現在でも大字に戸穴の地名が使用されている。この戸穴は、慶長6年(1601)段階では6村8浦2島を包括する村名戸穴村としてみえ、正保4年(1647)にも3村7浦の総称戸穴郷がみえる。さて、「豊後国大田文」にみえる玖珠郡 長野郷 山田郷 古後(こご)郷 帆足(ほあし)郷 飯田(はんだ)郷 は、嘉元4年の「 永嘉門院(えいかもんいん)御領目録」には「豊後国長野庄 古こ 山田 帆足 」「豊後国 玖珠荘 」とあることから、「八条院領目録」などにみえる「戸穴荘」は佐伯荘 立券(りっけん)当時の名称であった可能性も考えられる。現在の地名 立地からもその可能性が考えられる。
参考文献 橋本操六「大神姓佐伯氏と豊後佐伯」(『佐伯氏一族の興亡』)
[橋本 操六]
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