佐伯藩 ( さいきはん)

佐伯の殿様浦で持つ

〈領域と石高〉
 藩庁は佐伯市佐伯、通称 鶴谷城山 に立つ 佐伯城 に置かれた。初代藩主 毛利 高政(たかまさ) が 関ヶ原の戦い ののち徳川家康に帰参した 外様大名 である。慶長6年(1601)高政が入部して以来、明治の 廃藩置県 に至るまで存続する。佐伯藩の領域は、現在の津久見市南部、佐伯市、宇目町を除く南海部郡7か町村に及ぶものであった。総石高は慶長10年の「検地目録帳」によれば1万9,000石で朱印高の2万石に及ばない。しかも高政は2,000石余りを弟 吉安(よしやす) に譲っており、この分知領が寛永10年(1633)に 幕府領 となり1万7,000石となるが、それでも幕府の朱印高は変わっていない。寛文4年(1664)に初めて総村高と朱印高が一致して以後、2万石が公式の総石高となる。藩内は在方(農村地域) 浦方(漁村地域) 両町(城下町)の3つに分けられ支配された。
〈在方の支配〉
 在方 浦方では支配の徹底を図る目的から村組制度が取られた。佐伯藩には26の 朱印村 (幕府から認定された村)があるが、多くが数か村から10数か村の村で編成されている。在方の村組には 庄屋 が藩から任命され配下の村の統括が命じられた。その他に 肝煎(きもいり) が置かれたが、肝煎には庄屋の補佐役(庄屋付肝煎)と独立した肝煎があった。享保11年(1726)には庄屋が 大庄屋 、独立肝煎が庄屋、庄屋付肝煎が 小庄屋 に改称された。こうして村組を大庄屋が統括し、個々の村を小庄屋が統括するという仕組みができた。大庄屋には 皆合(かいごう)という専門の事務官が付き、個々の村には地目付 山守(やまもり)といった村役人も置かれた。山守とは山林の管理を行うものである。また、塩屋村はその一部が城下町となったため特別な扱いが藩からなされ庄屋は 町庄屋 、元禄3年(1690)からは 惣庄屋 と呼ばれ在方の総括責任者として他の庄屋より高い格式が与えらた。在方の負担には 年貢 小物成(こものなり) 夫役(ぶやく) があった。年貢率の決定は最初 春免(はるめん) (3月に村ごとに決定)と 定免(じょうめん)制 (一定の税率を定める)の試行錯誤が行われたが、元文5年(1740)からは定免制が採用された。小物成には綿 漆 かこ( 楮(こうぞ)) 茶 鹿皮などが納められた。夫役には土木工事の普請、藩の役人の随行、藩有林からの 樵木(こりき)(薪)の切り出し等があった。
〈浦方の支配〉
 「佐伯の殿様浦でもつ」という言葉は佐伯藩における浦方の存在の大きさを示すものである。文化7年(1810)の人口調査でも、在方2万7,733人に対し浦方2万1,542人となんら変わりない。藩では入部当初から種々のお触れをだし漁業保護に努めている。また漁民たちを定住させるため、荒れ地の開墾を奨励したり税の免除や魚の自由な販売を認めるなどしている。その結果、元和期(1615〜24)には漁民が定住し、藩は役人を個々の浦に置き浦方を掌握していった。そして 津久見浦 組(津久見湾から 四浦(ようら)半島にかけての地域)、 上浦村 (佐伯城下以北の地域) 中浦村 (鶴見半島北岸と大島の12浦)、 下浦村 (米水津湾 入津湾 蒲江浦一帯から波当津浦にかけての地域)の4つに編成した。浦方に課せられた課役は浦役といい、漁業に従事する人々には所有する網や 網代(あじろ)(漁場の使用)に課し、さらに 鰯(いわし)を干す浜に5段階の等級をつけ 運上(うんじょう)銀 を課した。また、廻船や日常生活に使用する船には登録料的な船床銀、帆の大きさに応じて帆別銀、特産物の積み出しには別帆別銀が課せられた。藩は活発な浦方の活動を年貢以外の大きな収入源として決して見逃さなかったのである。こうしたなかで、佐伯産 干鰯(ほしか) は畿内先進地域の綿作に不可欠なものとして名声を得るようになった。まさに「佐伯の殿様浦でもつ」の状況を呈したのである。
〈天保の改革〉
 佐伯藩も財政の窮乏からいくどかの 藩政改革 を行っている。 倹約 を命じ、支出を抑えると同時に 紙 などの特産品を 専売制 にし、改革ごとに強化し収入の増加を図った。しかし、それは農民にとって負担の増加でしかなかった。そのような状況のなか、 文化 一揆(いっき) が起こり紙専売の拠点が襲われるという事態も発生した。こうしたのちに藩が行ったのが 天保の改革 である。その内容は専売制のさらなる強化と年貢率のアップであった。紙 樵木は紙方 山方が管轄し専売を行っていたが同3年(1831)に産物方が設置され、すでに文政年間(1818〜29)に専売品となっていた干鰯の専売が強化された。その他の海産物も専売の対象となった。年貢率のアップは農村の実態とかけはなれていたため、紙生産の盛んな村は農業生産物で払い切れない分、紙 漉(すき)代銀で銀納している。重要な専売品である紙の買上量が減った分、藩は年貢率をアップすることで補おうとしたのである。この他にも城下での魚の売買を制限し、藩営の魚市場に限るとして、統制の強化を図っている。
[一法師 英昭]

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