佐伯文庫 ( さいきぶんこ)
八万冊の集書
〈高標の出自〉
佐伯藩8代藩主 毛利 高標(たかすえ) は、 宝暦5年(1755)7代藩主 高丘(たかおか) の三男として江戸藩邸に生まれた。同10年父の死去にともない6歳にして家督を相続し、安永2年(1773)18歳で初めて佐伯に入国した。その後、享和元年(1801)江戸藩邸において47歳で死去するまでの42年間、藩政に従事した。院号は寛龍院。高標は生来の学問好きで幼少のころより学者について経書( 儒学 の指導書)を学んだという。長じても彼の好学 蒐書(しゅうしょ)は名声を博し、親交のあった鳥取藩主池田定常、江州仁正寺藩主市橋長昭と当時の学者三大名と称せられたという(『佐伯文庫現存古書分類目録』)。
〈学問の奨励〉
学者大名と称せられたほどの高標は、藩政の場においても学問の奨励を図った。安永6年には 藩校 の 四校堂(しこうどう) を城内に設立し、 祭酒(さいしゅ)(学長)には日田から 松下西洋 (筑陰)を呼び寄せ学制の整備を依頼している。天明元年(1781)城内に3棟の御書物倉を建設し、書庫ならびに御書物奉行所として、今までに集めてきた書物の保管場所とした。こうしてできた文庫が「佐伯文庫」と名付けられたのである。佐伯文庫の蔵書の大部分は中国(宋 元 明 清)の本であり、分野は儒教の四書五経をはじめ、歴史書 詩文 仏典 医学書 数学書 天文 生物学と非常に多岐にわたるものであった。また、オランダ語やフランス語で書かれた植物書や医学書 世界地図など西洋の本も含まれていたという。しかも、質的にも初版本など価値の高いものばかりが選ばれていたし、 いくら古い本でも写本は絶対に佐伯文庫に入れなかったという。こうした蔵書は8万冊にも達していた。このように質的にも量的にも高い水準の書物をどのようにして集めたのであろうか。高標は家臣を長崎へ派遣し、 清 の船や オランダ の船が入港するたびに貴重な本や珍しい本の見本を送らせたという。そして、自分自身の目で確かめ選択を行った。彼の鑑識眼を示すものとして「七修類稿」購入の時の話が伝えられている。書籍商人が高標のもとにこの本を持参したとき、彼は商人に大版か小版であるかを尋ね、大版とわかると購入したという。小版が火災後の再刻版であり、その原本が大版であることを知っていたのである(『大分県史近世篇W』)。このようにして集めた蔵書を高標はこよなく愛していた。先に述べたように書物奉行を置き、その管理には細心の注意を払っている。たとえば江戸滞在中にも手紙で防虫のため 樟脳(しょうのう)をたくさん入れるようにと何度も書物奉行に書き送っている。しかもその態度は藩主でありながら、丁寧なものであった。また、万一の火災に備えて蔵書をすべて 櫃(ひつ)に納めた。櫃にはがんじょうな 鐶(かん)が付けられており、そばに置かれた6尺の樫の棒でいつでも運び出せるようにしていた。高標は集めるだけでなく書物が利用されなければ満足しなかったようである。彼自身が読書に励み、家臣にも書物を貸し出し読書を奨励したという。家臣の利用度が少ないと不機嫌になったらしい。こんなところにも書物に対する彼の愛情がしのばれる。しかし、高標が毎年数百部もの書物を買い集めていたしわ寄せは確実に藩財政に影響を及ぼしていった。
〈幕府への献本〉
高標の死後、佐伯文庫は引き続き管理されたが、文政7年(1824)孫の10代藩主 高翰(たかなか) の時に、2万冊余りが幕府に献本される。その理由として、@幕府からの強要、A領内の幕府領(床木 堅田2000石)と書物の交換を図った。といったことが挙げられている。しかし、幕府領の佐伯藩への返還はままならず、幕府は献本のほうびとして葵の紋章入りの馬鞍などを送ったにしかすぎなかった。送られた書物を幕府は紅葉山文庫に納め、一部を 昌平黌(しょうへいこう)と江戸医学館に配分した。この幕府への献本の際、佐伯文庫の目録を作成したのが 明石秋室 である。彼は「天下の奇書を蔵した佐伯文庫」にあこがれ佐伯藩明石家の養子となった 杵築藩 出身の者である。彼は文政3年書物奉行となり文庫の管理に当たり、そのかたわら「佐伯文庫」を読破したという。彼はのち四校堂の教官となっている。
〈「佐伯文庫」の現状〉
江戸幕府に献本された書物はよく保存され、現在宮内庁書陵部、内閣文庫、国立国会図書館に保管されている。また、佐伯に残された書物は明治期の混乱、昭和の戦乱の中で多く民間に流出したようである。昭和50年(1975)に毛利家から佐伯市に佐伯文庫 四校堂本 毛利家本の寄贈があった時の調査によれば、高標収集の佐伯文庫の約3割6分弱の冊数が残っているにすぎないが、 その内容から漢籍のコレクションとしては世界有数のものであるとしている(『佐伯文庫現存古書分類目録』)。
[一法師 英昭]
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