佐伯木炭 ( さいきもくたん)
家庭・工業燃料から木炭自動車まで
「豊後は今に 於(おい)て 尚(なお)炭焼きの本国である」。 柳田国男 が『 海南小記 』に記したように、大分県は古くから 木炭 の産地であった。木炭には、その製法、樹種、用途などによって各種の種類に分けられる。かつては、金属の製錬から家庭用の燃料まで幅広く使われていた木炭も、石油 ガス 電気などのエネルギー革命によって、すっかり姿を消してしまった。
〈木炭の里 佐伯地方〉
佐伯地方は、江戸時代から木炭の産地として有名であった。この地方で、木炭が販売を目的として大量に生産されはじめたのは、18世紀の初めである。生産の方法は 佐伯藩 の直接専売と、商人が請け負うものがあった。当時、炭焼きの請負主は、阿波(徳島県) 土佐(高知県) 日向(宮崎県)の人々であった。このため、炭焼きは四国から伝わったとか、土佐から伝わったという話が残っている。 廃藩置県 後、藩の品質統制がなくなると、粗製濫造の製品が増加し、佐伯木炭の評価は下がり価格も下落した。このため木炭業者の主だった者が中心となり、明治22年(1889)、南海部郡木炭改良組合を設立したが、活動をみないまま解散した。生産量も、 日清戦争 (1894〜95)以後、年々増加した。37年、粗悪品が再び問題となり、南海部郡の製造業者、販売業者によって木炭同業組合が結成された。製炭技術の改善、品質の向上を目的に39年から検査制をとり入れた。下毛郡でも37年に、大野郡では39年に木炭同業組合が結成され、44年には 大分県木炭同業組合 も結成されている。
〈炭焼きの人々と技術〉
木炭製造業者は、 本山(もとやま)と呼ばれている専業者と、冬の農閑期だけ炭焼きに従業する兼業の 端山(はしやま)とに分けられる。その作業集団も、家族だけの小集団から、親方 センドウ 焼子(やきこ)( 山子(やまこ)または 山師(やまし))という組織を持った多人数の集団まである。なかには、4、50組の夫婦を焼子とするものもあった。こうした大集団の木炭製造業者は、南海部郡堅田村(佐伯市)や上 入津(にゅうず) 下入津(蒲江町)に多く、県内各地から宮崎県 熊本県まで出稼ぎをしていた。木炭の原木は、くぬぎ しい かし 桜などの外、たぶ つばきなどの雑木を用いた。 椎茸(しいたけ) の生産がさかんになると、くぬぎは椎茸の原木にまわすようになった。木炭の製法は、明治中期までは 伏焼(ふせやき)法や佐伯在来窯とよばれる 土窯(つちがま)が中心であった。40年ごろに高知県から投込製炭法というこれまで捨てられていた枝まで利用する方法が伝わり、経済的に大きな効果をあげた。さらに石窯の技術が導入された。木炭は 白炭(しろずみ)と 黒炭(くろずみ)に大別される。白炭は炭窯で焼いた炭を窯から出して炭イケに入れて、灰や土をかけ消してつくる。黒炭は木が充分燃えた後、窯を塗りこめて密閉して消火したものである。白炭は普通は丈の高い石窯で焼かれ、黒炭は石窯より大型の土窯で焼いた。白炭は黒炭に比べて火付きは良くないが、堅くて火持ちが良い。製炭技術の上では、白炭の方が複雑でむずかしい。専業者の多かった佐伯地方では白炭が多く、兼業者の多い県北地方では黒炭が多かった。そのほか、鍛冶屋が燃料として用いた松を原木とするマツ炭があった。
〈統制そして木炭自動車〉
第一次世界大戦 により工業用木炭の需要の増加によって、大正期には大分県の木炭の生産は大きく伸びた。これまで主要な産地であった南海部 大野 下毛郡に加えて、日田 直入 宇佐 玖珠郡など山林の多い地域で生産がさかんになった。昭和5年(1930)、国内を吹き荒れた 農業恐慌 は、木炭業界にも大きな影響を与えた。木炭の価格が暴落したのである。7年に始まった 農山漁村経済更生運動 のなかで、副業収入の増加のため木炭製造が取り上げられた。しかし、大都市を中心とした市場での競争に品質に統一を欠く大分木炭は不評であった。10年、大分県はそれまで各地域の木炭組合が行っていた製品検査を県営とし、高田 臼杵 佐伯 三重 日田 中津の6か所に 県木炭検査所 を置いた。大分県では品質改良にも力を注ぎ、技術講習会や木炭改良組合の組織化をすすめた。この結果、佐伯在来窯に土佐改良窯の長所をとり入れた白炭佐伯折衷式が生まれた。12年、 日中戦争 が始まると、工業用木炭の需要が増加したが、13年には木炭の新しい需要が生まれる。ガソリン車にかわる木炭車の登場である。 木炭自動車 は、木炭ガス発生炉で木炭を燃やし発生したガスを気化器で空気を混ぜエンジンに送る。ガソリン不足が生んだ代用品の傑作である。14年末、木炭は政府の統制下となり、配給制となった。戦後、木炭不足から品質が低下したため、大分県は25年に 林産物検査条例 を制定、品質向上につとめたため、戦前の名声をとりもどした。30年代後半の 高度経済成長 のなかでエネルギー改革によって、影の薄い存在となった。
[佐藤 節]
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