宇佐宮寺の再興 ( うさぐうじのさいこう)

大内氏による再興

〈造営と祭礼〉
 平安中期、元慶4年(880) 宇佐宮 の上宮は豊前一国で三十年一度の式年造営が遂行され、末期には九州の所課として、神殿ごとにその造営料を負担する国が定められた。鎌倉時代には三十三年ごとの式年造営となり、 頼朝(よりとも) は 大宰府 が九州諸国に賦課する 一国平均役(いっこくへいきんやく) として、九州の 荘園 公領 に一律に賦課するよう命じた。 頓宮(とんぐう)の造営は豊後一国で負担し、下宮は随破造営で豊前国の負担であったが、平安末期に 宇佐宮領 の常見荘がその料所に当てられた。 弥勒寺(みろくじ) は11世紀前後に、九州所課として造営されることになっていた。宇佐宮の祭礼は、奈良時代に7、平安時代に17、鎌倉時代に45、室町時代に49も確認できる。中世文書には、祭礼はかつて「八十余度」 行われていたとあるが、その詳細は不明である。
〈宇佐宮の衰退〉
 延慶2年(1309)宇佐宮 弥勒寺の61棟の建物と宮迫僧坊分数十宇、及び宇佐の町は東西は松隈から榑橋まで5町、南北は北田より河まで3町と全焼。幕府指導のもとに臨時造営を進めたが、遅々として進展しなかった。元亨元年(1321)弥勒寺講堂立柱上棟。しかし、嘉暦元年(1326)に、上宮 下宮の臨時仮殿が焼失。同3年金堂 四王堂 地守鐘楼 経蔵 回廊 四方大門立柱上棟を行った。宇佐宮では南北朝の動乱により、式年造営は実施されず、神事法会の実施も困難になった。至徳3年(1386) 九州 探題(たんだい) 今川了俊(いまがわりょうしゅん) は下宮造営に関与し、岩部左衛門尉宗宣を奉行として派遣。造営費用は豊前国神領段銭を徴収して実施し、 段銭(たんせん)を納入しない輩に対しては、下地を差し押さえ修理料所とするよう、 豊前守護 大内 義弘(よしひろ) に指示した。突然、了俊は九州探題を解任され、その造営事業は中断。宇佐宮では大内義弘にその続行を陳情したが、義弘も応永の乱により、泉州堺(大阪府)で戦死した。
〈 大内 盛見(もりはる(み)) の宇佐宮寺政策〉
 義弘の後、盛見は大内一族の統制に成功し、幕府は 周防(すおう) 長門 豊前 筑前の守護 職(しき)を盛見に与えた。盛見(入道徳雄)は神祇を崇敬し、応永25年(1418)から永享3年(1431)にかけて、宇佐宮 弥勒寺の造営 神事法会などの再興に奔走した。この様子は、「宇佐宮寺御造営并神事法会再興日記」に詳細に記述されている。彼は豊前国郡々奉行人に造営人夫の徴発などを命じ、命令に背く 輩(やから)の名簿を提出させ、罪科に処するという強い態度で臨んだ。盛見は次ぎのような政策を行った。@ 大宮司(だいぐうじ) 職の四家交替制の確立など、宇佐宮寺の正常化を図った。A造営と祭会復活によって、宇佐宮の宗教的権威の確立を図った。B宇佐宮領関係の国人を動員し、大内氏への奉公を義務づけた。つまり、宇佐宮寺の古代勢力を支配下に置き、その地位を最大限に利用しようとしたのである。
〈造営 神事法会の再興〉
 応永25年(1418)5月3日、宇佐宮総 検校(けんぎょう) 政輔(まさすけ) が室町幕府に召され、将軍 足利 義持(よしもち) に謁見、この場で造営を命ずる御書が与えられた。盛見は直接造営の衝に当たり、工事の 進捗(しんちょく) 指示及び財政的援助を行った。同年、弥勒寺の 伽藍(がらん)社を造営。26年(1419)一御殿立柱上棟、大宮司初拝会。27年(1420)春季楽神事 御田植神事 七夕神事 放生会(ほうじょうえ) 冬御更会の執行、宇佐宮の若宮殿 北辰殿 上宮御與宿 頓宮 西御湯殿 西脇殿(春日社) 和間の大鳥居 百太夫殿社の立柱上棟。28年(1421)弥勒寺金堂 三御殿 上宮鳥居 西中門の立柱上棟。29年(1422)二御殿の立柱上棟、仏名会の執行。30年(1423)御鵜羽屋 東御湯殿 東脇殿(住吉社) 護摩堂 衛士屋の立柱上棟、春季楽 修正会 五月会 行幸会(ぎょうこうえ) 誕生会 仏名会 八子祭の執行。31年(1424)講演堂 一切経蔵立柱上棟。32年(1425)上宮回廊(18間)立柱上棟。33年(1426)御炊殿の講演堂 竈殿 回廊の上 葺(ぶき)、上宮の南中楼 東中門の立柱上棟、西北東の玉垣造立、致祭の執行。34年(1427)弥勒寺金堂の瓦葺、北中門 南楼門 西大門 東大門 北大門 西大門の坤に一切経蔵立柱上棟、春大祭 初拝会の執行。正長元年(1428)幣殿 小倉(おぐら)山 (上宮)の麓垣造立、若宮殿より西大門まで両方埓作事、御炊殿経所上葺、放生会の執行。永享元年(1429)楼門 浮殿(宇佐市大字松崎) 下宮御炊殿北の築地立柱上棟、放生会 行幸会の執行。2年(1430)弥勒寺の塔婆 呉橋(くれはし) 金堂の中間の廊下 瀬社(宇佐市大字樋田) 江嶋若宮(宇佐市大字江須賀)の立柱上棟。その外、宇佐宮の境外摂末社の造営にも力を注いだ。盛見の復興に寄せる心情は、宇佐宮への参宮8回、代参1回に十分しのぶことができる。盛見の領国経営は着実に実を結び、その信頼は絶大なものがあった。しかし、永享2年筑前国問題で、大内盛見は 大友 少弐(しょうに) 菊池氏等と対立し、翌年6月盛見は筑前国 怡土(いと)郡で戦死した。 大内 教弘(のりひろ) は盛見の政策を継承し、宇佐宮寺への保護政策を遂行した。大永3年(1523)の 回禄(かいろく)( 火災 )後、 大内 義隆(よしたか) も宇佐宮の造営に力を尽くしている。
 参考文献 『宇佐市史』中巻
[乙・ 政已]

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