縄文時代 ( じょうもんじだい)

縄文時代 概観

 日本列島における弥生式以前の土器をすべて 縄文式土器 の名でよんでいる。縄文式土器をもちい、 狩猟 や 漁撈(ぎょろう)、そして採集をもって生活が行われていた時代を縄文式時代という。
 縄文時代の遺跡が最初に調査されたのは、明治10年(1877)東京都品川区大井町大井6丁目の大森貝塚の発掘であった。調査者はアメリカ人、エドワード シルヴェスター モース(Edward S.Morse)で、発掘報告書は明治12年“Shell Mounds Of Omori”(『大森介墟古物編』)が刊行された。この報告書には土器の文様にCord Marked Potteryという表わし方があり、これを和訳したのが「索文」という名であった。しかし白井光太郎はこれを「縄紋土器」(『東京人類学会報告』1巻3号 明治19年)と訳している。神田孝平は「縄文土器」(『東京人類学会雑誌』4巻34号 明治21年)という名をつかった。縄紋か縄文についての論争は今日でも行われているのであるが、縄目の文様は「紋」ではなく文様であり、文字の意味からいっても「文」であるということから「縄文式土器」という名称が一般的にもちいられている。
〈縄文式土器〉
 昭和34年(1959)鎌木義昌、芹沢長介は長崎県北松浦郡吉井町福井洞穴の発掘調査を行い、縄文早期土器( 押型文 )の下の層から、これまでみたことのない土器を発掘した。この土器が 爪形文(つめがたもん) 、 隆帯(りゅうたい)文土器 である。この隆帯文土器(福井3層)とともに出土した木炭片を学習院大学の木越研究室で検査測定したところ12,700±500、という数値が出た。今から12,000年前という古い数値を疑った人もあったが、昭和37年に江坂輝弥によって愛媛県 上浮穴(かみうけあな)郡美川村上黒岩岩陰遺跡から同じ隆帯文土器がみつかり、そこから出土した木炭片が12,165±600という年代が測定(アメリカ アイソトープ研究所)されたことによって、1万年以上も前に土器が使用されていたことが証明された。更に麻生優の調査が行われた長崎県 泉福寺(せんぷくじ)洞穴では、隆帯文土器より更に下の層から 豆粒(とうりゅう)文土器 (豆粒のような文様の土器)が確認された。
 隆帯文や豆粒文土器は、晩期旧石器時代または中石器時代(土器とともに出土する 細石器 は、旧石器時代と判定して)のものとして、これらは縄文式土器とは別のものであるという考えをもち、真の縄文式土器は、縄目の文様、押型文様など約1万年前に出現した縄文早期土器にあるとする学者もある。しかし、 隆線(りゅうせん)文 、豆粒文土器が縄文土器の起源とみることが次第に定着している。
 大分県では、直入郡荻町 政所馬渡(まどころまわたり)遺跡 、同直入町長湯 前田遺跡 、速見郡山香町 目久保(めくぼ)遺跡 などの広い範囲で、爪形文、隆帯文がみつかり、土器の起源を研究することができるようになった。
〈森の狩人たち〉
 縄文時代の西日本は、秋になるとドングリの実を結ぶ樹木におおわれていた。この森の恵みをうけた人々は何時しかこんな 諺(ことわざ)を口にするようになった。「イッチィ、ガッチィカータギノミ、食われんものはドングリ」、甘いイチイガシやシイの実は生でも食べられるが、シブイクヌギなどを食べると血をはくことがあるから食べてはいけない。
 クヌギのドングリには多量の 澱粉(でんぷん)を含んでいるため、あく抜き、水 晒(さら)しをして苦味をぬき食用にすることができる。照葉樹の葉は積るとスポンジのように水を吸収して 溜(た)め、その 沃土(よくど)は地下に根茎類の植物を育てる。シカやイノシシをはじめとする動物は木の実を求めて集まり、地下の根茎類をあさる。このような森は狩場として最適で、石器の材料となる 黒曜石 は、遠く佐賀県伊万里市腰岳から交易によって大分県地方まで運ばれきた。良質な石の確保で速見郡日出町 早水台(そうずだい)遺跡 (縄文早期)ではすでに素晴らしい 石鏃(せきぞく) 加工の技術が発達し、八幡一郎が鍬型鏃と名付けた石鏃がつくられた。腐葉土をとおして流れ出す小川は魚類であふれていた。川漁業で生活する人達の住居が各所にみつかるのは、照葉樹森の影響である。中津市 棒垣(ぼうがき)遺跡 、大野郡朝地町 田村遺跡 では縄文後期の 集落跡 がみつかり 竪穴(たてあな)住居址 の中央に石を組み合せて炉が造られていた。
〈縄文式土器の分類〉
 北海道から沖縄県まで、南北に長い日本列島で、弥生式土器以前に縄文式土器が使用されていた。しかし北と南では土器の特徴が一致しているとはいえないが、一つの名称でよび、これを基本的に5段階に分類している。
  縄文早期 縄文や 撚糸(よりいと)文 を施し、南関東地方に発生する。これに対して刻目を入れた棒状工具を使用して文様を入れた押型文土器が瀬戸内沿岸一帯に多く出土する。土器の形は 尖底(せんてい)深鉢形 を主とする。大分県では速見郡日出町早水台遺跡が代表である。
  縄文前期 縄文や 貝殻文 を施し、九州では 細線刻(さいせんこく)文 や 細隆起線(さいりゅうき)文 を施し、粘土のタガを積み上げて製作した 円筒土器 を主体とする。東国東郡国東町富来 羽田遺跡 を代表とする。
  縄文中期 基本は円筒土器であるが、器形に変化が見られ、東日本では人面 杷手(にぎりて)、火炎形、 蛇体(じゃたい)などの文様も施されている。国東町羽田遺跡の後期土器に 蛇頭把手文様 が出土し注目されている。
  縄文後期 東北日本では円筒形土器の口縁部に大きな山形隆起部がみられ口縁部の文様を飾る。西日本では縄文の一部を 磨消(すりけし)て文様を施す「 磨消縄文 」がみられる。後半には 磨研(まけん)土器 が流行して文様のない端正な土器に変化する。磨消縄文土器に大分市 小池原(こいけばる)貝塚 があり、磨研土器には宇佐 小畑(おばたけ)遺跡 がある。
  縄文晩期 東北日本では磨研土器に 雲形文 や 工字(こうじ)文 など線刻の文様が発達し、これに朱、漆を施した高度な土器が発達する。これに対して西日本では 黒色(こくしょく)磨研 仕上げの端正な土器が流行する。大野郡緒方町 大石遺跡 が代表的遺跡とされる。
 以上の縄文式土器5分類のほか、長崎県北松浦郡地方の 洞穴(どうけつ) で発見されて問題となった豆粒文土器や隆帯文土器を中石器から分離して縄文草創期とすると、6分類になる。
[賀川 光夫]

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