佐賀郷 ( さがのごう)

瀬戸内海交通の要衝、豊後水軍の里

 佐賀郷は、古代は海部郡4郷の一つで、その郷域は現在のほぼ佐賀関町域と推定される。『 豊後国風土記 』には、 丹生(にゅう)郷 佐尉(さい)郷 穂門(ほと)郷 の記述はみられるが、佐賀郷については触れられていないので、不明な点が多い。郷内の 佐賀関半島 の先端には、式内社の 早吸日姫(はやすいひめ)神社 が鎮座する。
〈佐賀 惟憲(これのり)の拠点〉
 佐賀郷が歴史上で注目を集めるのは、 緒方 惟栄(これよし) 臼杵 惟隆(これたか) 佐賀惟憲 の兄弟の動きである。かれらは、 治承(じしょう) 寿永(じゅえい)の内乱 に際、源氏方に付き、九州に入った平氏方を攻撃し、源氏の動きを背後から支援し、特に佐賀惟憲は、その名字からわかるように佐賀郷を拠点にし、屋島 壇(だん)ノ浦 などの戦いでは、源氏方の水軍の一翼を 担(にな)った。さらに、元暦元年(1184)7月には、平氏方に付いた 宇佐 大宮司(だいぐうじ) を攻めるため、宇佐郡に侵入し、 宇佐八幡宮 に焼き打ちをかけたが、その後、義経に協力したため、惟栄 惟隆 惟憲兄弟は上野国沼田荘に流された。緒方 臼杵 佐賀の諸氏は、大野 稙田(わさだ)などとともに大神姓の一族で、宇佐の神官 大神(おおが)氏 ともかかわるとか、9世紀末の豊後国介 大神 良臣(よしおみ) の子 庶幾(これちか) の子孫ともいう。
〈 得宗(とくそう)領となる〉
 大神姓佐賀氏の没落後は、その遺領は 没官(もっかん)になったと思われるが、 弘安 図田帳(ずでんちょう) の段階では、「国領佐賀郷、百五十町、地頭相模守殿、佐賀関十一町、関権現御神領、地頭大友兵庫入道殿」とあり、佐賀郷は北条 貞時(さだとき)が地頭、佐賀関は 関権現 ( 早吸日女神社 )領として 大友 頼泰(よりやす) が地頭となっている。また、「 由原(ゆすはら)宮年中行事次第」には得宗(北条氏の惣領家)領の給主として 安東 蓮聖(れんしょう) の名が見える。安東蓮聖は得宗の 御内人(みうちびと)で、 陸奥(むつ)の十三湊の安東氏と同族といわれ、摂津の多田院、同国生魂新荘 福嶋、同国美作荘、和泉国山直郷などに所領をもち、特に瀬戸内一帯で活動し、摂津国福泊の築港などを行うなど西国の得宗領を中心に年貢の輸送や金融などと深くかかわった人物であった。このような人物が豊後国の海路の要衝である佐賀郷を所持していたことは注目される。
〈大友氏領となる〉
 北条氏が滅亡すると、佐賀郷も没官領として室町幕府に没収されるが、永和元年に玖珠郡での戦いの勲功の賞として当郷は 大友 親世(ちかよ) に与えられた。ここに佐賀郷 佐賀関佐賀関半島一帯は大友氏領となる。
 戦国期に佐賀郷で活躍した大友氏の 被官(ひかん)の 若林一族 がいる。若林氏は、佐賀郷の 一尺屋(いっしゃくや) を拠点にして、 鶴原氏 とともに 大友水軍 の中核を担った。特に若林中務少輔 鎮興(しげおき)は「 豊後船監 」として大友水軍を率い活躍した。 大内氏 滅亡後、 毛利氏 は大内氏の旧領の豊前に侵攻しため、大友氏は大内氏の一族 輝弘(てるひろ) を防州 合尾(あいぼ)浦(山口県秋穂町)に侵入させ、揺さぶりをかけた。この侵入に豊後水軍を率いて活躍したのが 若林鎮興 である。この挙兵は結局失敗したが、毛利軍を九州から撤退させることには成功したのである。
 また、鎮興は、元亀3年(1572)には、大友氏と姻戚関係にある土佐一条氏の救援のため、水軍を率い、伊予に侵攻した。さらに、天正8年(1580)の国東 田原氏 の反乱に際しても、 安岐(あき)城 の沖に兵船を出し、逃亡した田原軍を防州室積(山口県室積)まで追撃するなど、佐賀郷の若林氏は大友水軍の担い手であった。
 このように、佐賀郷は、中世を通じて、大神姓佐賀氏、得宗被官安東氏、若林氏と瀬戸内海の海上交通に深くかかわった人々の拠点であった。
 また、半島の先端部の佐賀関は、古来以来海上交通の要衝であり、室町時代には、明船なども寄港したともいわれ、 宗麟(そうりん) の代には、 ポルトガル船 なども訪れたようで、対外的にも重要な港であった。
 参考文献 『佐賀関町史』 国立歴史博物館編『中世の武家文書」
[飯沼 賢司]

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